犬の言葉、犬の表現


[

「二階へ行って、ネンネしておいで。」
 ところがランはぼくの目を見て、「行かない」ときっぱり意思表示をした。「二階の寝床へは行かない。まだここにいて、トウチャン、カアチャンと一緒にいたい。」という意思は、ランの態度を見ると明白に分かる。頭を挙げ、すっくと立ち、じっとぼくの目を見つめ、拒否を示すように、ちょっとだけ後じさりする。夜7時のテレビのニュースが終わったときだった。
 「もう寝てきなさい。」
 さらに言うと、「ウォッ」と小さな声で、「行かないよ」と答える。七歳になる今も、赤ちゃんのときからの言葉「ネンネ」をぼくはランに使っている。犬の知能は人間の3歳児か4歳児ぐらいというから、いつまでもランは赤ちゃん言葉だ。
 いつもこの時間になると、人間が食事をしている間も居間に寝そべっていたランは、ぼくに近づいてきて、じっと目を見つめる。口をぼくの腕に置くこともある。そして体をそわそわさせる。閉まっている出口のドアのところに行って、ドアを見ることもある。
 「二階に行くの?」
 ランの心が二階に向いていることを察知してドアを開けてやると、ランは、すすっと静かに二階へ向かい、ことこと階段を上っていく音が聞こえる。
 犬にもはっきりした意思がある。そういう場面に出会うと、不思議な想いとともに、いとおしい気持ちも覚える。
 犬の行動はシンプルで、パターン化している。食事の時間、散歩の時間が来れば、待ちの気持ちが行動にあらわれる。遅くなると、「もう時間ですよ。」
と知らせる声を出す。ところがそれが、いつものパターンとは違う行動になることがあるのがおもしろい。ランは頭のなかで何を考えているのかなと思う。言葉を話せたら、面白いことを言うだろうな。
 ランは、天気のいい日は一日外で過す。夕方、体を丁寧に拭いてやると、ランは家に上がる。リードから放たれて自由になったランの至福の時間帯の始まりだ。このとき居間へ行かないで、二階の寝床へさっさと上がるのは、ぼくが後から服を着替えに二階に上ってくるのを知っているからだ。ぼくを待って、ランはおもちゃの笛を吹いている。縫いぐるみのなかに、笛が入っていて、ランがかみかみすると、ヒューヒューと鳴る。ランはその「演奏」をぼくに聞かせたくて一生懸命に音を鳴らそうとする。
「ほれ、鳴っているよ。上手でしょ。」
としきりにアイコンタクトをとってくる。口にくわえて唾液の付いた縫いぐるみを、ぼくの体にくっつけてくるから、「もういい。もういい」と言いながら、ぼくはランにこたえて「上手、上手」とほめてやる。これが日課のように続いている。
 庭にリードでつながれているとき、雨が降ってきたり、強風が吹いてきたりすると、
「雨が降ってきたよ。」
と、このときは短く吠えて知らせてくる。おかげで洗濯物を干している時は助かることが多い。家のなかから外を見て、雨が降っているように見えなくて、「降ってないじゃないか」、と思っていたら、ぽつりぽつりと来ていたということが何度もあった。強風はランの苦手、不安そうな顔をして、「もう家に入りたいよ」と吠える。「お前の先祖はオオカミだろ。オオカミは荒野の嵐もへっちゃらだぞ。」と説教するのだが、現代人と同じで現代犬はいくじなしだ。
 ランの食事の時間、餌を与えるのが遅れたら、吠えるのではなく、あのなんとも言えない声、人間の幼児も出すような、ねだったり、せっぱつまった気持ちを表明したりするときのような声を出す。「ウーイン ウーンイーオーン」と高く低く、「早くちょうだいよ。」と待ちかねる気持ちを、あれは声帯を使っていない、鼻腔音とでも言うよう声で表す。これはもう人間と同じだ。
 網戸をはずして立てかけてあったりすると、ランはこわい。一度倒れてきたことがあり、そういう経験をしているから、網戸は危険物だと思っている。一輪車もこわいもの。一輪車を押してランに近づくと、どうしようかと、うろうろする。横に並んで散歩中、後ろから車が近づいてくる。まだ距離があるのに、ランはぴたっとぼくの後ろに付いて車をよける。こういう行動は教えていない。
 犬は言葉を持たないけれど、眼、態度、行動、鳴き声などで、コミュニケーションをとる。目は口ほどにものを言う。目は、驚くほど変化に富んでいる。目を見ていると、何かが分かる。ぼくは人間の言葉を使って、話しかける。それもかなりランには伝わるようだ。その時も、ランはじっとぼくの目を見ている。およそ人間よりもはるかによく相手の目を見つめる。
 
 それにしても人間と人間のコミュニケーションは、豊かな言葉があるわりには、それを駆使せず貧しくなっていることが多いような気がする。言葉という便利なものがあるけれど、それを使いたくないという感情に支配されると、沈黙という表現になる。それもまたよしだが、生きている限り、もっと味わい深い会話をしましょうよ、楽しい会話を楽しみましょうよ、人間さんよ、と言いたい。

この7年間、ちょっとの外出から帰ってきただけでも、ランは狂喜して迎えてくれる。こんなにも熱烈な変わることのないコミュニケーションをとってくれる動物が家族にいるということをしみじみと思う。愛するものの存在は大きい。トウチャン、カアチャンの愛にランは応え、ランの愛にぼくらが応えている。