遊びに遊んだ被災地の子どもたち <安曇野保養ステイのキャンプ物語>

 カブトムシの雄と雌、それにノコギリクワガタもとれたよ、真っ黒に日焼けした青年男性スタッフのマコちゃんと一緒に自然公園の木々を回ってきた健太が、興奮して帰ってきた。虫かごを見ると、ほんとだ、カブトの角とノコギリクワガタのぎざぎざのはさみが見えた。この谷にはいろんなのがいるんだなあ。ビオトープの自然公園にはハスが咲く池もある。子どもたちがキャンプの初日に捕虫網でつかまえたトンボの中にヤンマもいた。オニヤンマかな、ここにはまだヤンマが生き残っているんだねえ、うれしいねえ。福島では放射能汚染のために外で思いきり遊べなかったんだもの、もっと遊べ、もっと遊べよ。
 ぼくが安曇野に暮らして7年目、これまでヤンマの姿を見たことがなかった。安曇野にはもう棲息していないのかと思っていた。この谷は子どもの冒険にもってこいだ。
 福島の子どもたちのキャンプの二日目は川遊びだった。前夜は7張りのテントに家族ごとに泊まった。キャンプ地のすぐ横に木々が覆う黒沢川上流がある。ところどころに堰堤があり、水が滝になって落ちている。「子ども冒険クラブ」の親分である大浜崇さんを、子どもたちはためらわず「ハマ」と呼んだ。崇さんが自己紹介でそう呼んでと言ったから、子どもたちは親しみを込めてそのとおりに呼んでいる。ハマは、これから川へ行くよ、と言って、みんなを集めて説明する。
「川へ行くのに、持って行くものはなーんだ?」
「水着」
 ひとりの子が言う。ハマは、自分で作ったホワイトボードに水泳パンツの図を描く。
「ぼうし」
「はい、ぼうし」
 帽子の絵。順にそうして描いていったら、げらげら笑い声。
「透明人間だあ」
 お母さんの一人が笑う。なるほど、帽子、水中眼鏡、Tシャツ、水泳パンツ、靴と、頭から足下もとまでの絵は、透明人間だ。ユーモアがあふれる話しっぷりに、笑い声が絶えない。 
 ハマは子どもたちを引率して川をさかのぼった。ジイジのぼくは熊よけスプレーやケガ薬をザックに入れてしんがりをつとめた。熊が出没することもあるところだ。先頭を行くハマは大声で、「あーおー」とか何とか叫ぶ。熊さん、人間が行くよー。高さ2メートルほどの堰堤が行く手をさえぎった。水が滝になって落ちている。
「ここで修行をします」
 ハマはシャツを脱いで裸になり、ひざほどの深さの滝つぼに座るや頭から滝に打たれた。水が頭からはねて飛び散る。ハマは合掌しながらなにやらムニャムニャ言っている。それ、みんなやってみよう、ところが誰も動かない。そのとき5歳の女の子エリカが水の中に入って滝に近づいた。すごいチャレンジ精神だ。それをきっかけになって子どもたちが次々チャレンジした。
 魚とり名人のマコちゃんは、川のあちこちにひそんでいる魚を見つけ出して、網でたちまち10匹ほど獲った。どこにも魚の姿が見えない小さな沢なのに。イワナとカジカそれぞれ5匹ほど、サワガニ、シマヘビそれぞれ一匹。
 親分ハマは、年齢40代で一児の父親、北アルプスの山小屋で働いてきたエッちゃんとはネパールのカトマンズで出会った。結ばれた二人は、数年前この谷に残されていた一軒の空き家に住みついた。家の前の一枚の田んぼで稲を作り、山羊4頭と鶏数羽と一頭の白い犬を飼う。山羊の乳は朝の食事のチャイになる。チーズも作る。ハマは、毎年夏休み期間中に一週間の「子ども冒険クラブ」の合宿を行い、マコちゃんが手伝う。マコはまだ独身。冒険クラブは、8月以外は、土日の冒険クラブを開催している。雨が降ろうが雪が降ろうが、親から送り出されてやってきた子どもたちはすべてテントで生活する。自分で薪を集めて火をおこし食事を作る。
 今年の夏の福島の子のキャンプは、そこを舞台にしたプロジェクトだった。

 福島の家族の保養ステイプログラムは、増田望三郎君の「安曇野地球宿」と、大浜崇さんの「どあい子ども冒険クラブ」がホームステイ場にしようと計画が立てられ、地域のたくさんのボランティアがそれを支えた。8月17日から21日までの保養プログロムは短時日の企画だったが、驚くなかれ、参加した子どもや親をすっかり解放した。
 昨年の3.11から一年半が経つ。3.11直後、「安曇野地球宿」は一時避難の人々に宿を提供した。地球宿を主宰する望三郎君は、持ち前の情熱とコーディネーターの才能で、20代から40代の人と人とをつなぎ、支援の輪をひろげた。それが東日本震災被災地を支援する「あずみのひかりプロジェクト」になった。支援の輪は、住み家を奪われ生活を破壊されてやってきた人々に、人間を信じて人生を再スタートさせる希望をもたらした。その人たちのなかから安曇野に移住を考える人たちが出てきた。さらに「あずみのひかりプロジェクト」は、何人もの若い力を被災地支援に送り出した。大工でアマチュア演奏家のシンちゃんは、繰り返し支援物資を車に積んで救援に出た。大工のダイちゃんも車を飛ばした。人と物資を被災地へ送るためには後方支援活動で財源をつくらねばならない。「あずみのひかりプロジェクト」に集う若い人たちは他所からやってきた人が多く、先祖代々からの土地や財産を持つような人はいない。みんな裸一貫で生活を築いている人ばかりだ。財源はカンパもしてもらうが、自力で生み出すために地球宿での定期開催のカフェも行なわれた。
 被災地から安曇野に移住したいという人たちが出てきたとき、プロジェクトは地元の案内人にも来てもらってコンサルティングも行い、住むところと仕事の準備を手伝った。安曇野市に移住した人たちは、やがて、被災地へ自分たちで作った野菜を送り販売する「野菜の架け橋」の活動を始める。被災地にいる元地球宿から帰った人たちが、被災地での販売拠点になった。そうして震災後1年がたち、今年の春「野菜の架け橋」を担う人たちから「保養ステイプログラム」の案が出たのだった。今も放射能に苦しむ福島の子どもたちと親たち、子どもたちは屋外の自然のなかで思いきり遊べていない、親たちにもストレスがたまっている。そうしてこの企画が生まれ、福島の子どもたち12人と7人の親、祖父母がやってきたのだった。
 三日目の昼は、そばうち職人の青年、カズがやってきて、ソバを打ってくれた。カズは、福島の出身でこれまでソバ打ちの修行をやってきた。いま、安曇野でソバの店を出したいと思っている。福島から子どもたちが来ると聞いて、ぜひふるさとの人たちに食べてほしいと、そば粉、道具一式をもってやってきたのだった。この昼は、地元の子どもたちも、「野菜の架け橋」の人たちも参加して、40人ほどがカズのザルソバを食べた。裸一貫から出発してカズもこのプロジェクトの輪に入った。子どもたちに語りかけ、笑いを起し、芸術的な美しいソバ打ちの技は実においしい出来上がりになった。
 三日目の夜は、親は地球宿で泊まり、子どもだけテントで泊まるという計画だった。キャンプ地と地球宿は2キロほど離れている。結局ぼくらはテントでと自分で決め、親から離れて一晩子どもだけでテントで寝たのは4人の男の子だけだった。
 思いきり遊ぶ、それが子どもの仕事だ。何をしてもいい時間がたっぷりあった。クルミの木の下で、一人でいくつもクルミの実をとって、コンコン割っている子がいた。だんだん割り方が上手になった。手網をもって、ビオトープの池まで出かけて何かをすくっている子がいた。大木から吊るされたロープでターザンごっこをしている女の子たちがいた。持つ手に全体重をかけて、行って返ってくる一往復の振り子運動に成功した子は大満足だった。子どもたちは見違えるように元気になり、たくましくなった。体のなかの子どもがよみがえった。幼児から小学六年生まで、子どもたちはきょうだいになった。
 福島に帰る前日、ハマが子どもたちを集めて言った。
「虫たちはどうする?」
 トンボ、カブトムシ、クワガタ、魚‥‥、容器に入れられた生き物たち、
「このあたりではねえ、お盆が過ぎるとねえ、生き物たちを自然のなかに返してやるんだよ。そうすると、虫たちも魚もまた来年子どもを産むんだよ」
 だれも持って帰ると言わなかった。
「じゃあ、また森の中へ帰してやろうか、それでいいかい?」
 子どもたちはうなずいた。生き物たちは、元気に自然のなかにもどっていった。
 地球宿に泊まった夜、親たちはたっぷりとスタッフや親同士でお話をしたらしい。望三郎君が印象的な一人のお母さんの話を紹介してくれた。
「こんなにも愛と寛容の心に満ちた人たちに出会って、自分たちは忘れられていなかったと、安心感を得ました。どうして私たちがこんなひどい目に会わなければならないのと、他をねたみ、うらやみ、優しさまで失っていた自分のすさんだ暗い気持ちが浄化されました」
 またある母親は、
「私たちにやれることは何だろうと考えます。自分に出来ることはなんでしょうか。何を返していけるでしょうか。取りもどした優しさでお返ししたいです」
と語った。
 最後の夜はライブがはじけた。保護者の祖父でついてきた人が踊った。地球宿の望三郎君から来たメール。
「ゆくりりっくライブ。ふまちゃん&強志の歌と音楽に涙ぐむママたちが続出。そして安曇野ジャグバンド登場。福島のみんなもスプーンや鍋を叩いて、安曇野賛歌を合唱しました。いま、子供たちは眠りにつき、地球宿の居間ではママたちがまったり語っております」
 財源ももたず、スポンサーも公的支援もないボランティアグループが、自力でやろうと考えた支援活動。それがこの夏も実現し、感激と感謝の気持ちを乗せたバスは福島に帰っていった。福島・長野の往復のバス代は、長野県が支援してくれた。これはありがたかった。
 21日朝、帰っていくバスが200メートルほども遠ざかったのに、バスの窓から子どもたちの歓声が聞えた。来るときのバスのなかは、みんな無言だったと聞いたが、この劇的な変化は感動的だった。安曇野の体験は、参加した人たちの心に刻まれ、刻まれたものからまた新たな物語が始まるだろう。