「エミール」<2>

 ルソーは、幼少時期の子どもの五感、すなわち視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚を鍛え、レベルアップすることを重視した。五感を鍛えるには、体験して感じる機能を敏感にする必要がある。私たちは日常生活で、「このカレーがいたみかけているよ」と食べ物が腐敗しかけているかどうか懸念することがよくある。食べ物が安全な状態かどうかは、健康維持にとって重要なことである。カレーがいたみかけているのに気づくのは、まず味の変化である。まずくなる。それから匂いが変化する。ものによっては糸を引くようになる。味覚、嗅覚、視覚が鈍感では、腐ったものを食べることになりかねない。
 ルソーがこんなことを書いている。夜中にある建物にとじこめられた。真っ暗な部屋である。
 「手をたたいてごらんなさい。その反響によって、そこが広いところか狭いところか、自分が真ん中にいるのか隅っこにいるのかがわかるだろう。壁から半歩ほどのところに来れば、空気はあまり流れなくなり、もっとはねかえるような感じになるので、違った感覚を顔に起こさせる。その場に止まって順にあらゆる方向に向いてごらんなさい。もしどこか戸が開いていれば、空気のかすかな流れによってそれとわかるだろう。もし舟に乗っているとすれば、どんなふうに風が顔に当たるかによって、どちらの方向に進んでいるか、川の流れが急であるかゆったりしているかも、分かるだろう。このような観察は夜でなければうまくできないものだ。真昼間ではどんなに注意しようとしても、視覚によって助けられ、あるいは気を散らされて、観察はうまくいかない。
 夜の遊びをたくさんさせること、この忠告は想像以上に大切なことだ。夜が人間をおびえさせるのは自然なことだ。理性も、知識も、分別も、勇気も、このような運命から人びとを解き放つことはほとんどない。」
 だからこそ、このような訓練が必要だと説く。
 またこんなことも紹介している。
 「チェロの胴に手を置いてみれば、目の助けも耳の助けも借りずに、木の胴の振動の仕方によって、発している音が低いか高いか、第一弦が鳴っているのか第四弦が鳴っているのか判別できる。触覚を訓練すれば、だんだんに敏感になって、そのうち一曲全部を指で聞くことができるまでになる、と私は信じて疑わない。」
 ルソーは音楽家でもあった。指で音楽を聞く。もしそれが可能だとすれば、聴覚障害者に音楽で話しかけられるのではないかと、ルソーは考えた。
 「どうしてわたしの生徒はいつも足の裏に牛の皮をつけていなければならないのか。」
という問いを出していた。牛の皮とは靴のことだ。すなわち裸足のすすめである。そしてある出来事を引いている。
 冬の真夜中に、町の中にはいってきた敵に眼を覚まされたジュネーブの人たちは、靴より先に銃をとりあげた。もし市民たちが裸足で歩けなかったら、ジュネーブは占領されたかもしれないというのである。1602年にあった、サボア公の一派がジュネーブの占領を試みた事件だ。
 「常に人を不慮の事故から守ることにしよう。エミールが毎朝裸足で、どんな季節でも、寝室、階段、庭を走り回るようにしたい。ただ、ガラスは取り除いておくように注意しよう。肉体の発育を助けるあらゆる運動をし、どのような姿勢のときも、楽で安定した体位をとることを学ばねばならない。遠く高く飛び上がったり、木によじ登ったり、塀を乗り越えたりできなければならない。いつでも体の平衡を保てなくてはならない。
 わたしは、生徒を岩山のふもとに連れて行く。そそり立つ、でこぼこの道を軽々と歩いていくためには、岩の頂から頂に飛び移るには、どんな姿勢をとらなければならないか教えることだろう。」
 ルソーの教育のほんの一端である。現代教育はどうだろう。これとは逆の道を歩んでいるのではないか。スポーツも管理された種目運動になってしまっている。