内村鑑三は、明治27年、日清戦争の起きた年、箱根の芦ノ湖畔で開かれた夏季学校で、「後世への最大遺物」という演説をした。その演説の中に、次のような話があった。
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‥‥イギリスに、今から200年前、やせこけて病身な一人の学者がおった。
この人は、世の中の人にも知られず、用のないものと思われて、始終貧乏して、裏店(うらだな)のようなところに住まっていた。かの人は何をする人かと言われるぐらい世の中に知られない人で、何もできないような人であったが、しかし彼は一つの大思想を持っていた。その思想というのは、人間というものは、非常な価値のあるものである、また個人というものは国家よりも大切なものである、こういう大思想をもっていたのであります。
17世紀の中ごろにおいてはその説は社会にまったく容れられなかった。その時分はヨーロッパでは、主義は国家主義ときまっておった。イタリア、イギリス、フランス、ドイツ、みな国家的精神を養わなければならぬとて、社会はあげて国家という団体に思想を傾けておった時代でした。どのような権力のある人であろうとも、個人は国家よりも大切であるという考えを世の中にいくら発表しても、実行のできないことはわかりきっていた。
そこでこの学者は、ひそかに裏店に引っ込んで、本を書いた。
この人はご存じでありましょう。ジョン・ロックであります。
その本は、「Essay on Human Understanding」であります。この本がフランスに行きまして、ルソーが読んだ。モンテスキューが読んだ。ミラボーが読んだ。
そうしてその思想がフランス全国に行き渡って、ついにフランス革命が起きた。フランスの2800万人の国民を動かした。それがためにヨーロッパじゅうが動き出して、この19世紀の初めにおいてジョン・ロックの著書でヨーロッパが動いた。それからアメリカ合衆国が生まれた。それからハンガリーの改革があった。それからイタリアの独立があった。
実にジョン・ロックがヨーロッパの改革に及ぼした影響は非常なものであります。
その結果を、日本でお互いが感じている。
われわれの願いは何であるか。個人の力を増そうというのではないか。われわれはこのことをどこまで実行できるか。‥‥
ジョン・ロックの思想はわれわれのなかで働いている。
内村鑑三は、明治の時代にこう叫んでいた。
彼は国家主義の発動としての日本の戦争に反対した。足尾銅山の鉱毒と谷中村を滅ぼし遊水地にするという「国家による暴力」に反対した。
個人は国家に身を捧げよ、この思想は専制国家の武器となり、アジア太平洋戦争を引き起こした。
今の日本や如何、今の世界や如何。