「エミール」<3>

 エミールが読む一冊の本、ルソーはその本を、「エミールが読む最初の本となり、その一冊が長い間、彼の蔵書のすべてとなるだろう。そしていつまでたっても、それは彼の蔵書のなかで特別の位置を占めるものになるだろう」と書いた、その本とは「ロビンソン・クルーソー」である。
 「ロビンソン・クルーソー」は、イギリスのデフォー作の小説である。出版は1719年刊。1719年というと、ルソー自身は7歳であったが、彼はその年齢で「プルターク英雄伝」を愛読していた。9歳の時、「ロビンソン・クルーソー」のフランス語訳が出版される。そして、その後何歳のときかに、自然人の生活記録「ロビンソン・クルーソー」を彼は読んでいる。
 ぼくが「ロビンソン・クルーソー」を読んだのは、小学校後半だったが、もう夢中だった。無人島にひとり漂着したクルーソーは、島で生活する。船に残されていた小麦を蒔き、山羊を飼い、オウムと会話し28年間自然生活をする。ぼくの冒険への憧れがふくらんだ。
 ルソーは「エミール」で、この小説を推奨する理由をこう書く。
 「島の中でたった一人、同胞の助けもなく、いかなる技術の道具もなく、それでも生き長らえ、生命を守り、そして一種の幸福さえも手に入れたクルーソー
 ‥‥この物語は、ロビンソンがその島のそばで遭難するところから始まり、彼をそこから救い出す船の到着するところで終わりになるわけであるが、それはエミールの遊びともなり、勉強ともなる物語であろう。わたしは彼が、それに熱中して、絶えず彼の城や、山羊や、農場のことを考えるようであってほしい。実地に即して、知らなければならないあらゆることを、細部にわたって学び、自らロビンソン自身になったような気になってほしい。‥‥エミールが、いろいろなものが無くなった場合、どんな手段を講ずるべきか、主人公の行動をよく調べ、もっとうまいやり方はなかったかどうか、彼の過失を見つけ、自分ならその轍を踏まないように、過失を利用するようであってほしい。」

 ぼくは、「少年期にぜひ読んだらいいよ」と生徒たち、特に男の子たちにすすめた本のなかに、この「ロビンソン・クルーソー」があり、類似の「十五少年漂流記」があった。後者は、少年たちが知恵と力を合わせて生き抜いていく物語だから、15人の集団がどう動き、どのような関係を築いていくか、そこがおもしろい。今の子どもたちにはますます読んでほしい物語である。

 「エミールはわずかな知恵しかもっていない。しかし、彼がもっている知識は、ほんとうに彼のものになっている。中途半端にしか知らないことは何もない。彼の知っている、しかもよく知っている少数の事柄のなかで、いちばん大切なことがらは、自分は今は知らないけれども、いつかは知ることのできるたくさんのことがらがあるということ、他の人は知っているが、自分は一生涯知ることのないであろうさらに多くのことがらあるということ、そして、いかなる人間も決して知ることのできないであろう無数のことがらがあるということである。彼は知識においてではなく、知識を獲得する能力において、普遍的な精神をもっている。外に向かって開かれている、聡明な、あらゆることに対して用意の整っている精神、そしてモンテーニュの言っているように、教育されてはいないけれども、とにかく教育される可能性のある精神である。彼が自分のするあらゆることに対して、《何の役に立つか》を、そして自分の信じるあらゆることに対して、《なにゆえか》を見出すことを知っていれば、わたしはそれで充分である。もう一度繰り返すが、わたしの目的は、彼に学問を与えることではなく、必要に応じてそれを獲得する方法を教え、学問の価値を正確に評価させ、何にもまして真実を愛させることなのだ。」

 これはルソーの考えである。
 そこから考える。それでは日本で、私たちの学校で、私たちの家庭で、どんな目的、どんな理由、どんな理にもとづいて、自分たちが教育と考えていることを行なおうとしているか。その結果、どんな子どもが育ち、どんな人材が生まれ、社会に巣立っているか、ということを。