雑の思想と民主主義

 

f:id:michimasa1937:20150214220723j:plain

 

 高橋源一郎と辻真一の対談「雑の思想 世界の複雑さを愛するために」(大月書店)のなかに、こんな意見が出ている。

 高橋「いま、民主主義の問題がクローズアップされているけれど、民主主義とは、デモス(民衆)+クラシ―(統治)で、「民衆による統治」です。ギリシャの民主主義は、いまの民主主義とはニュアンスが違います。ものごとをどうやって決めるか、決める前にどれくらい話し合うか、それが重要です。役人も陪審員も、ギリシアはくじ引き+任期一年です。決める前に「話し合う」ことを何より重んじた。このギリシアの考え方はルソーに続く。ルソーは、根本的に全員考えが違うということを重視していた。共同体の構成員のみんなが違った考えを持っていると認める。要するに決まらない。ギリシアの場合、市民が三万~四万人いて、三万通り、四万通りの考え方がある。それを一つの意見に集約することがそもそも間違っているけれど、やらなければいけない。ではどうするかというと、三万通り四万通りの意見を、異なったままでシェアするのはどうかと考えた。ルソーの『社会契約論』はそこに重点を置いた。

 たとえば、党派をつくっちゃいけないと言っている。日本には今五つの党派があり、五通りの考えに分けていけばわかりやすいし、採決しやすい。けれど、そこにはもともとあった意見の多様性はなくなっている。代議制民主主義は決めやすく、わかりやすいが、本質的な欠点を持っている。ルソーが批判したのはそこです。五通りになったとたんに、民主主義は死ぬのだ、と。

 もともと「雑」だったものが五つにまとめられた瞬間に、民主主義のもっとも重要な思想的な意味が死ぬのだというのがルソーの考え方で、彼は代議制民主主義は奴隷制と同じだと、徹底的に批判しています。

 民主主義の根本は、個人個人、全体の意見の中で、自分の意見を見つめる時間を保障している。それがディスカッション、熟議の時間です。『雑』は『雑』のままでよい。それを保障しているのが民主主義だと。

 代議制民主主義はというシステムは統治の方法であり、議案を選択するための方法に過ぎない。民主主義はデモス(民衆)とクラシ―(統治)ですが、民衆と統治のあいだには深い裂け目が走っている、矛盾を抱えたまま制度をつくってよいのか、というのがルソー以来の難問で、まだ解決されていません。 

 

 辻真一は、本末転倒した社会の在り方からの転換を目指す運動、スローライフの運動をしている。

 「今ぼくたちは、世界の価値観と自分たちのライフスタイルの大転換にむけてバスケットに放り込まれたものを一つ一つ見つめ直そうとしている。『雑』こそがキーワードなのだ。生態系における『雑草』、森林の『雑木』、農や食の『雑穀』のように、雑談、雑役、雑音、雑貨、雑務、雑学、雑誌、雑種、雑念などといった、雑なるモノやコトがなければ、ぼくたちの暮らしはずいぶんとさびしいものになるだろう。」

 

この本、考えさせられるところが多い。