ルソーの思想から現代へ


 東京、大阪で起きている「在日」を排斥するデモに参加している多くの人は普通の庶民である。普通の庶民が、普通の庶民を何のためらいもなく「殺せ」と叫んで街を歩くのだから、これはもう犯罪ではないか。ドイツでは逮捕されるようだが、日本のこの恒例のデモに対する市民の良識ある批判はあまりに弱々しい。
 史実と思想と倫理を自己流に変え攻撃するこの現象は、歴史認識の錯誤と欠如が根底にある。
 過激な排斥現象は、他の国でも生じている。
 たとえば、南北戦争が終わって、1865年に創設されたアメリカのKKKクー・クラックス・クラン)団は、白人至上主義者の団体である。彼らは、黒人や黒人を支持する白人を襲撃した。その後いったん解散させられたが、1950年代に復活している。
 ヒトラーによるナチズムは第二次世界大戦でのドイツ敗北によって消滅したが、ネオ・ナチズムが、同じ1950年ころ台頭した。ドイツ民族を高みに置き、ユダヤ系や移民を排撃する。ドイツにおける平和と人権、自由と民主主義の価値観は揺るぐとは思えないが、それに逆行する者たちが生まれている。
 第二次世界大戦後も、国粋主義民族浄化という考えによって、内戦などに暴走した国がいくつもある。

 ルソーの研究家で京都大学の学者であった桑原武夫は、その著「ルソー」(岩波)にこう書いている。

 「『むすんで ひらいて』のなつかしく甘美なメロディ、明治以来それはいたるところの幼稚園で愛唱されているが、その作曲者がルソーであることを知らぬ子ども、いや先生も多いのである。しかも、そのメロディは子どもたちの心を楽しく美しくする。ルソーの思想についても同じことが言えるであろう。
 平等思想はキリスト教にも仏教にも古くからあった。しかし、それらは現実社会の不平等を改革しようとするものではなかった。ルソーが現れることによって、人間は本来すべて平等であるべきであって、もし平等でないとしたら、そこには必ず打破すべき不正がある、という考え方、さらには感じ方が正当なものとして定着された。そしてこの平等思想は学説としてよりも、むしろ自明の理としてうけとられることによって、やがてルソーを離れ、無記名のものとして世界中に広がった。アジア・アフリカの人民が植民地解放を叫ぶとき、有色人種も人間であるかぎり白人種と平等でなければならぬという思想と、これまたルソーから起こったナショナリズムに支えられている。そのさいルソーの名が冠せられなくとも、それは彼の影響なのである。
 休日が来れば人びとは高山に登り、または山野にピクニックする。ルソーはこれらのことの創設者ではない。しかし、彼の文章の力によって、こうした趣味がヨーロッパに普及し、やがて日本にまで及んだのである。
 ロベスピエールはルソーにむかって『不滅のジャンジャック・ルソー』と呼びかけた。わたしたちは、この革命家よりもいっそう広い意味において、『不滅のジャンジャック・ルソー』ということができるであろう。」

 ルソーは(1712年〜1778年)、「学問芸術論」、「人間不平等起源論」、「社会契約論」、「エミール」などを世に出した。ルソーの思想はフランス革命につながり、やがてアメリカの独立に影響を与えた。
それから百数十年後の日本の明治期、「自由民権運動」を支えたイデオロギーはルソー思想であった。その代表者は中江兆民である。兆民は2年半のフランス留学を終えて明治7年帰国すると、ルソーの著作の翻訳を行ない、ルソーの思想とフランス革命の思想を日本に伝えた。ルソーの思想は兆民から清国中国に伝わり、兆民は「東洋のルソー」と呼ばれた。ルソーの思想はやがて明治期の自然主義文学の発生をも助ける。
 多くの社会主義者無政府主義者が、無実の罪で死刑にされた「大逆事件」(1910〜1911)の直後に、「ルソー誕生記念晩餐会」と「ルソー記念講演会」が1912年6月8日に東京で開かれた。主な出席者は社会主義者自由主義者であった。百人以上のものものしい警官隊の包囲のなかで、入場料を払って集まってきた聴衆は500人を超えたという。

 ルソーの思想は、明治期の日本の国づくりに影響を及ぼし、15年戦争後の日本国憲法の思想につながっている。長い長い歴史の糸である。