口笛と草笛とハーモニカ


 少年時代、自由自在に吹けた口笛が、この年になって吹いてみたら吹けないことに気づいたのは数年前のことだった。あんなに吹けたのにどういうわけだ、とショックだった。少年期から老年期までのわたしの長い遍歴の人生、口笛を吹くことがなかったその間に、口びるは演奏技術をすっかり退化させていた。
 今朝もそうだった。ランとのウォーキングに出ると、口をついて出てきたメロディがあった。曲は、2004年に中国の青島(チンタオ)で手に入れたノルウェーの少年合唱だった。そのCDを何度聞いたことか。口をついて出てきた曲を、口笛で吹いた。たちまち笛はなめらかさを失い、高音が出ない。小学校高学年から中学校時代は、口笛の音の大きさ、強弱、高低音、ほとんどカバーできた。それが今はくちびるが思うようにならない。何度も吹いてみて、これはやっぱり練習だなと思う。
 小学校6年の時、学芸会で、自分の特技、得意技を披露することになった。そのとき、転入生の桜井君が草笛を吹いた。桜井君は、事情があって転入してきたと知らされていた。年は一年上だったがぼくらの学年に入ってきた。その彼が講堂のステージに立って、草笛でいくつかの曲を吹いた。下唇に木の葉を当てて、音を出す。ツバキの葉、草の葉、いろんな葉っぱを使って見事に吹いた。それから彼は人気者になった。なんとなくとっつきにくく孤立していた彼だったが、草笛の師範になってから、草笛チャレンジ仲間が生まれた。ぼくもチャレンジの一員だった。工夫しながら何度も何度も練習して、なんとか音は出せるようになったが、口笛のように自由自在には行かなかった。結局自由自在に至る前にあきらめてしまった。それでも、口笛は自信があった。口笛を吹くとき、一枚の紙を縦にして唇に触れるようにあてる。すると音はいっそう大きくなるように思われた。口笛の音の大きさでは、だれにも負けないという自負ができた。
 中学3年のとき、級友にハーモニカの名人、竹沢君がいた。彼がハーモニカの名人だということが分かったのは、ある日彼が学校にハーモニカを持ってきて、放課後教室に残って吹いているのを聞いたからだった。これには瞠目した。ぼくもハーモニカがほしい。父に言うと、宮田のハーモニカと練習本を買ってくれた。ぼくは学校から帰ってくると、熱心に練習をした。半音の出し方、和音の出し方、テクニックが増えた。こうして頭にメロディがあると、口笛と同じように、自由に演奏することができるようになった。級友のハーモニカの名人だった竹沢君は、中学を卒業してからトランペットを吹くようになった。
ぼくは、大人になるにつれ、いつしか口笛は吹かなくなった。ハーモニカは教師になってからも、キスリングザックのポケットにしのばせ、ときどき山で吹くこともあったが、それも人生の後半期になると、吹くことを忘れていった。
 2004年、青島にいたとき、中国労働部の研修生に日本語を教えていた。言語研修が終わり、深く心でつながった研修生と別れる日が来た。そのお別れ会で、日本の歌をハーモニカで吹きたいと思った。ハーモニカをどこかで売っていないだろうか、探してみると青島に日本のスーパーマーケットがあり、その楽器売り場にハーモニカが売られていた。
 そのとき買ったハーモニカは中国製で、その後多くの若者たちとの別れの日に活躍することになった。
 口笛は、そのうち吹けるようになるだろう。自然に口をついて曲が出てくることがあるかぎり、吹きたくなることがあるかぎり、老年の口は少年期の口を思い出すだろう。