絶望に打ちひしがれた人々へのエール<三好達治>


    「氷の季節」・「涙をぬぐって働こう」


三好達治が、終戦直後1946年(昭和21年)に刊行した詩集『砂の砦』に、
「氷の季節」と「涙をぬぐって働こう」という詩がある。
敗戦、焦土と化した祖国、
人々は家族を失い、食べる物はなく、住む家、着るものに事欠き、
塗炭の苦しみのなかを生き延びようとした悲惨の極みに、
人生と自然の寂寥を詠ってきた抒情詩人・三好達治は、
生の声をほとばしらせて、「氷の季節」と「涙をぬぐって働こう」という詩を人々に贈った。
詩は、絶望の中から生きる力を振り絞って立ち上がろうと訴える。
敗戦日本の最も苦しかった日々に、人々に呼びかけた詩ではあるが、
いつの時代にも通じるものがあり、
失意に沈み、絶望にひしがれた人々へのエールは生きつづける。


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         氷の季節

  今は苦しい時だ
  今はもっとも苦しい時だ
  長い激しい戦(いくさ)のあとで
  四方の兵はみな敗れ
  家は焼け
  船は沈み
  山林も田野も蕪(あ)れて
  この窮乏の時を迎える
  七千万のわれわれは
  一人一人に無量の悲痛をいだいている
  怒りや失意や絶望や
  とりかえしのつかない悲しい別離や
  痛ましい孤独や貧困や
  飢餓や寒さや
  ありとあらゆる死の行列の渦まく中で
  七千万のわれわれは
  一人一人に
  人の力の担い得ない悲哀の重荷を担っている
  重荷はわれらの肉を破り
  疲れたわれらの肩の上で
  重荷はわれらの骨をくだく
  今は苦しい時だ
  長い苦しい戦の日より
  今はさらに苦しい時だ
  ああ今
  多くの人は深い心で沈黙する
  不吉な暦の冬の日ははてしがなく
  小鳥の歌う歌さえなく
  暗いさみしい谷底を歩みつづける
  この氷の窮乏の季節を
  けれどもわれらは進んでゆく
  われらは辛抱づよく忍耐して
  心を一つにして
  われらは節度を守って進んでゆく
  われらを救うものは
  ただ一つ 智慧(ちえ)
  その忠言に耳を傾けながら
  われらはつつましく 用心ぶかく
  謙虚に未来を信頼して
  明日を信じる者の勇気をもって
  ‥‥勇気をもって
  人の耐えうる最も悲壮な最も沈痛な勇気をもって
  われらは進んでゆく‥‥


     ▽    ▽    ▽


「この氷の窮乏の季節を
けれどもわれらは進んでゆく
われらは辛抱づよく忍耐して
心を一つにして
われらは節度を守って進んでゆく
われらを救うものはただ一つ 智慧

知恵ではなく智慧。この「智慧」を、広辞苑ではこう説明している。
  ○<仏教用語>真理を明らかにし、悟りを開く働き。『慈悲』と対にして用いる。
  ○<哲学用語>人生の指針となるような、人格と深く結びついている哲学的知識。
智慧は、人間の生き方にかかわってくるもの。
達治のもう一つの詩。


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        涙をぬぐって働こう


  みんなで希望をとりもどして涙をぬぐって働こう
  忘れがたい悲しみは忘れがたいままにしておこう
  苦しい心は苦しいままに
  けれどもその心を今日は一たび寛(くつろ)ごう
  みんなで元気をとりもどして涙をぬぐって働こう

 
  最も悪い運命の台風の眼はすぎ去った
  最も悪い熱病の時はすぎ去った
  すべての悪い時は今日はもう彼方に去った
  楽しい春の日はなお地平に遠く
  冬の日は暗い谷間をうなだれて歩みつづける
  今日はまだわれらの暦は快適の季節に遠く
  小鳥の歌は氷のかげに沈黙し
  田野も霜にうら枯れて
  空にはさびしい風の声が叫んでいる


  けれどもすでに
  すべての悪い時は今日はもう彼方に去った
  かたい小さな草花のつぼみは
  地面の底のくら闇からしずかに生まれ出ようとする
  かたくとざされた死と沈黙の氷の底から
  希望は一心に働く者の呼び声にこたえて
  それは新しい帆布をかかげて
  明日の水平線にあらわれる


  ああその遠くからしずかに来るものを信じよう
  みんなで一心につつましく心をあつめて信じよう
  みんなで希望をとりもどして涙をぬぐって働こう
  今年のはじめのこの苦しい日を
  今年の終りのもっと良い日に置き代えよう


     ▽    ▽    ▽


これまで日本の中学校・高校では、近現代史の授業が空洞化していた。
歴史観歴史認識の問題から、近現代史を遠ざけてきたという経緯もある。
近現代の日本の状況を子どもたちが調べていくという授業のなかで、
証言としての文学をとりあげて読み味わうならば、
よりいっそう生きた歴史を学ぶことができるだろう。
生きた歴史は、生きる力を子どもたちに与える。
生きる力を子どもたちに与える授業が、
現代、もっとも必要になっている。