内田樹「壊れゆく日本という国」


 内田樹現代思想家)の寄稿を読んで、うなった。(朝日新聞5月8日)
 「国民国家としての日本」が解体過程に入った、という論である。「国民国家」とは、「国境線を持ち、常備軍と官僚群を備え、言語や生活習慣や伝統文化を共有する国民が、そこに帰属意識を持っている共同体のことである」と定義している。その国民国家が確実に解体局面に入っている、簡単に言うと、政府が、「国民以外のもの」すなわちグローバル企業の利害を国民よりも優先するようになってきたというのである。グローバル企業とは、「無国籍企業」のことである。巨大化したグローバル企業は、勝つために有利な条件の国に投資し、国境を超えて拠点をつくり利益を上げていこうとする。わが国の大企業は、軒並み「グローバル企業化」したか、しつつある。いずれすべての企業がグローバル化するだろう。
 論旨はそこからこう展開する。
 <大飯原発の再稼動を求めるとき、グローバル企業とメディアは次のようなロジックで再稼動の必要性を論じた。
 原発を止めて火力に頼ったせいで、電力価格が上がり、製造コストがかさみ、国際競争で勝てなくなった。日本企業に「勝って」ほしいなら原発再稼動を認めよ。そうしないなら、われわれは生産拠点を海外に移すしかない。そうなったら国内の雇用は失われ、地域経済は崩壊し、税収もなくなる。それでもよいのか、と。
 この「恫喝」に屈して民主党政府は原発再稼動を認めた。だが、少し想像力を発揮すれば、この言い分がずいぶん奇妙なものであることが分かる。電力価格が上がったからという理由で日本を去ると公言するような企業は、仮に再び原発事故が起きて、彼らが操業しているエリアが放射性物質で汚染された場合にはどうふるまうだろうか? 自分たちが強く要請して再稼動させた原発が事故を起こしたのだから、除染のコストはわれわれが一部負担してもいいと言うだろうか。雇用確保と地域振興と国土再建のために、あえて日本にとどまると言うだろうか。絶対に言わないと私は思う。こんな危険な土地で操業できるわけがない、汚染地の製品が売れるはずがない、そう言ってさっさと日本列島から出て行くはずである。ことあるごとに「日本から出て行く」と脅しをかけて、そのつど政府から便益を引き出す企業を「日本の企業」と呼ぶことに私はつよい抵抗を感じる。彼らにとって国民国家は、「食い尽くすまで」は使い手のある資源である。>

 かくして、政府は、東京電力福島原発放射能汚染地帯の除染を税金を使って浄化する。
 グローバル企業は、コストを外部化する。本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押し付けて、利益だけを確保しようとする。グローバル企業は実態は無国籍化しているにもかかわらず、「日本の企業」という名乗りを手放さない。それは「われわれが収益を最大化すること、すなわち日本の国益の増大」という論理を用いてコスト外部化をすすめるためである。
 「日本が勝つために国民はコストを負担せよ」、国民は一体となって「企業利益の増大=国益の増大」を図るべし、という詭弁が今やまかりとおる。
 そこで内田は、グローバル化と排外主義的ナショナリズムは、コインの裏表なのだと指摘する。世界に展開することと、排外主義は、逆の現象のようでありながら、同じ局面に息づいている。しまいに国民は、「どんな犠牲を払ってもいい、この戦争に勝つのだ」と目を血走らせるようになる。
 「国民をこういう上ずった状態に持ち込むためには、排外主義的なナショナリズムの昂進が不可欠である。
 国民国家の末期の形が今であると。