ヒバリはどこへ行ったのやら



 雲雀落ち天に金粉残りけり
            平井照敏

 雲雀には、揚げひばりと、落ちひばりがある。揚げ雲雀は空に上がっていくヒバリ、落ち雲雀は、空から落ちてくるヒバリ。子どものころ、春の麦畑の上空にはいつもヒバリの鳴き声があった。あっちの畑の上にも、こっちの畑の上にも、春から初夏にかけて、ヒバリの声は空のコーラスだった。麦畑にはヒバリの巣がある。親ヒバリは、巣の近くから飛び上がり、空中でホバリングしながら、ひとしきりせわしくさえずってから、すいーっと落ちるように麦畑に舞い戻る。空に縦線を引くように黒点が落ちて、麦の緑の海に沈む。その位置から、ヒバリは麦畑のなかを歩いて移動し、こっそりと巣に入る。巣の位置を悟られぬように、ヒバリの隠遁の術である。巣には卵があり、孵ればヒナがいる。
      雲雀落ち天に金粉残りけり
 ヒバリが空から麦畑に舞い降りた。それまで空中の一点にいてさえずっていた、そこに、鳴き声が金粉となって残っている、と平井照敏は詠った。金粉とはよくぞたとえたものだ。あの声は、きらきらと光る声、金の粉。

 三好達治の有名な詩がある。

            揚げ雲雀
     雲雀に井戸は天にある‥‥ あれあれ
     あんなに雲雀はいそいそと 水を汲みに舞ひ上る
     はるかに澄んだ青空の あちらこちらに
     おきき 井戸のくるるがなっている

 「くるる」というのは井戸のつるべを上下させる綱をかけるわっかの心棒である。水を汲むとき、綱を引くとくるるがキュッキュと鳴る。ヒバリの声を達治はくるるの音として聴いた。つるべで水を汲むときは、上から下へ、井戸の中から水を汲む。ヒバリは、麦畑から天へ、天の井戸から水を汲む。その発想がみずみずしい。

 安曇野にも麦畑がある。最近一度だけヒバリのホバリングを見た。それはその一回きりだった。野のどこにも、ヒバリの声は聞こえない。かつてのにぎやかな春の野の合唱団は、どこへ行ったのだろう。ツバメも4、5回見ただけで、天かける姿はどこへ行ったのやら。
もう一句。

        阿修羅あり雲雀あがれる興福寺
                     森澄雄
 少年のような阿修羅像が興福寺にある。境内から雲雀があがる。雲雀のりりしさ。阿修羅のりりしさ。