国民の責任



 「不慮の災難」という。「不慮」は思いもかけないこと。
 まさかそんなことが起こるとは考えもしなかった。エジプトで熱気球が燃えて落下し死亡、アルジェリアでテロによる技術者の死亡、毎日毎日、交通事故に火災事故、殺人事件など絶えることがない。
 日常生活では、突如何かが起こって自分の命が奪われるなんて、ほとんどの人は考えないで生きている。今日も生き、あしたも生き、来月も生きる。それは当然のことだと思っている。戦場なら一秒後には死ぬこともあると覚悟しているが、平和な暮らしのなかにどっぷり浸かっている人は、今晩死が待ち受けているなんて考えない。そう信じこんでいる。
 3.11の震災による死の数分前までは、人びとは今晩あのテレビ番組を見よう、食事は何にしようかと考えていた。
 原発が爆発した。原発に関係してきた電力会社の人も、行政の人たちも、学者も、いったん事故が起これば、悲惨な死が待ち受けているということは当然のこととして認識はしていた。けれどもそれは起こらないこととして、どこかで信じていた。安全神話が喧伝され、安全信仰が行き渡っていた。行き渡った信仰が責任回避の思考につながった。原発を推進してきた歴代政府、政治家、電力会社、学者のだれもが、まさかのことがおこってしまったと思いつつ、責任をとらない。安全神話にだまされていたとし、原発を容認し、原発はなくてはならないものとしてその恩恵を受けてきた国民も責任をとらない。
 池田清彦早稲田大学)の書評にうなずく。
 「小出裕亜章・佐高信原発と日本人――自分を売らない思想』(角川one テーマ21)は反原発の旗手2人が、原発を許してきた日本人の『善人の思想』を問いただしたすばらしくスリリングな本である。『私たちにはだまされた責任、そして二度とだまされない責任がある』とのコトバが本書の真骨頂を示している。悪いのはすべて政府や電力会社のせいで、だまされた国民は何の罪もない無辜(むこ)の民だ、という構図から抜け出さないかぎり、この国から原発がなくなることはないのかもしれない。」
 国民は何にだまされてきたのだろう。安全神話とは何だろうか。情報、国民の中に投入された情報、それをなぜ信じたのだろう。
 日露戦争の後ロシアとの条約に反対して日比谷焼き討ち事件などを起こした国民の間違ったナショナリズムが、その後の軍事国家と戦争につながっていった。戦後の「だまされていた」という受身の弁解、そして3.11は「原発神話にだまされていた」。
 またもや信じて、「やむをえない必要悪」という打算の道を国民は歩もうとするか。