日本語の力

 日本語教室に来ている王さんは、市内で開かれたスピーチコンテストで5位、董さんは入賞しなかった。王さんは昨年優勝している。今年二人は原稿を全く見ないで発表し、自信をもっていたのだが、思いがけない結果になって落胆と失望しきりだった。「入賞のチャンスをほかの外国人に回したんだよ」、同じ人が優勝してばかりではどうかという配慮があったんだろうと教師たちはなぐさめたが、それでも納得できないでいた。
 先週の日曜日に、再度日本語教室で、スピーチをしてもらった。なかなかすぐれた発表であったから、ベトナムのトー君とハップ君らには刺激になった。自分たちも3年後にはそれだけの日本語力を身につけたいと思う気持ちが表れていた。
 王さんのスピーチの原稿を見せてもらった。

           言葉の力

 皆さん、こんにちは。私は日本に来て、2年7ヶ月もたちました。この間にいろいろな新しい経験をしましたが、いちばん強く感じたのが「言葉の力」です。
 日本に来たころ、日本語はぜんぜんわかりませんでしたが、なかなか勉強する気になりませんでした。
 勉強する気になったきっかけは、買ったばかりのカメラが故障したときのことです。そのときは日本に来て、まだ2ヶ月でした。「あいうえお」さえ、満足に分かりませんでしたから、故障を説明することなど無理なことでした。会社の通訳さんにお願いして、電器屋さんに行ってもらい、新しいカメラに取り替えてもらいました。このような特別なことは例外として、日本語が分からなくても日常の生活はあまり不便ではありませんが、言葉が通じないためのささやかな悩みごとはたくさんあります。だから勉強を始めることにしました。
 日本語が分かるようになって、効果をあらわすのはまず仕事上です。仕事中は順調なことばかりではありません。機械が故障すれば、以前は身振り手振りで責任者に伝えます。むだな時間がどんどん過ぎていきます。でも日本語が分かるようになって、ちょっとだけでも話したら、故障の原因がすぐ分かって直してくれました。時間のむだを減らすことができました。また気持ちもすっきりします。
 また、日常の生活でも言葉の通じる喜びを味わいました。今でもはっきり覚えているのは、最初のころ、買い物に行ったときの恥ずかしかったことです。レジの前でお金を払うのを待っていたとき、向こうの店員さんが私を見て、何か話しかけたのですが分かりません。そのままじっと立って待っていました。すると、店員さんは私のかごを持って、自分のレジのところへ行きました。これで分かりました。私を店員さんは呼んでいたのです。まったく分からなかった私は恥ずかしい思いをしました。でも今は、自由に買い物をすることができます。
 ウォークマンを買ったときのことです。電器屋さんに行って気に入ったウォークマンを見つけました。高いので別の店に行くことになりました。しかし、どこへ行っても同じ値段でした。中国で買い物するとき、値段の交渉ができることを思い出しました。店員さんといろいろ交渉した末に5000円も安くしてくれました。とてもうれしかったです。日本語ができなければ安くはならなかったでしょう。
 自分のことより誰かの役に立つことができたら、うれしさは何倍にもなります。
 ある日、私と友だちが家に急用があってお金を送ることになりました。あいにく友だちは昼間の勤務で、わたしが代わりに銀行に行くことになりました。でも、本人でないとだめだといわれました。帰って友だちに話すと、「とても困った」といいました。
 次の日、ふたたび銀行に行きました。友だちの名前を使って送ろうとしたのです。でも、相手からいろいろと質問されたあげく、「こちらは昨日の方ではありませんか」と気づかれてしまいました。いくら説明しても許してくれません。頭を下げ、何度もお願いしました。とうとう銀行員さんが負けて、上司と相談した後、会社にも電話をして、本人と話をして、確認したあとにこうおっしゃいました。
 「銀行にはルールがあります。今日は特別として許します。二度とこのようなことがないように気をつけてください」
 その瞬間、泣くほどうれしかったです。友だちの喜ぶ顔が目に浮かび、今でもあのときの光景は頭から離れません。このときほど、「言葉の力」を実感したことはありません。日本語ができたからこそ、相手にしてくれたことでしょう。
 よく「何のために勉強しているのですか」と聞かれます。実は自分でも分かりません。この先どうなるか? ともかく目の前の生活を充実させることであると思います。日本語を勉強しなかったら、この3年間はつまらないままに終わったかもしれません。話したいことが言葉にならないとき、とてもくやしいです。反対に自分の気持ちが相手に届けば、何にも増してうれしいし、このうえない喜びになります。これから悔いのないようにがんばります。ありがとうございました。 

―― 彼女たちは今年夏、ふるさとに帰っていく。