歴史から学ぶ


 近代日本の戦争を書いたルポルタージュや文学が多数ある。歴史を学ぶとき、戦争を知ろうとするとき、これらの書物を読まずにその事実に迫ることはできない。いつ、どこで、何があったか、なぜそうなったか、それらを断片的知識として憶えることだけが歴史の勉強になっているかぎり、歴史から学ぶことはできない。歴史を知らなければ、未来を画くこともできない。
 ビルマに侵攻していた日本軍は1944年4月、インドのインパール攻撃を行なった。それは一将軍の思いつきであった。その作戦にたいする良識ある批判は受け入れられず、批判をしたものたちはつぶされ、追われた。
 日本軍のインパール攻撃の長編記録、「インパール」(高木俊朗)は、貴重な、生々しい記録である。記録の終盤、敗残部隊の撤退していくところ、その一部を抜粋してみよう。
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 問題は軍旗である。軍旗をだれが持っていくか。残っている将校は、長中尉ただ一人である。
 かろうじて生きているというだけの一人の肉体の上に、困難な責任がかさなりあってきた。軍人を志望した者ならば、それも当然の仕事であろう。だが、長中尉は、画家になろうとして美術学校に通っていた、芸術家気どりのきゃしゃな青年にすぎない。戦場の生活にたえられるのが、すでにふしぎなほどであった。
 撤退がはじまってから、いちばん頭を悩ましたのは、軍旗の処理であった。天皇の軍隊であることを象徴する軍旗を、どのようにして、無事に後退させるか。万一のときには、断じて敵の手に渡さない方法がいろいろ研究された。寸断して、将校が分けて持ち、安全な場所に行ってから復元させるとか、あるいは、旗手少尉が腹に巻いていくとか、どれも完全な方法ではなかった。最後に選ばれたのは、旗ざおに黄色火薬をしかけておくことであった。危険におちいったときに、旗手はマッチか手榴弾で、軍旗を一片も残さず吹き飛ばすことができる。そして旗手自身の肉体も。――今、長中尉が握っている旗ざおには、黄色火薬がしかけてある。
 出発。
 大樹林の中をつらぬいている赤土の道が、のぼりつづきになる。空は暗い。今夜も途中で豪雨が襲ってくるだろう。
 長中尉は歩き続けた。蒼茫として暮れていく薄明の空の下に、戦場のあとが墓場のごとくひろがっている。
 どこまでもつづく、死の廃墟。多くの兵隊が血を流し、死体を横たえた土の上を、今、敗残の生き残りの兵隊が、軍旗をなかにして、よろめきながら、ばらばらに歩いていく。取り返しのつかない悔恨と、ばかげた徒労と犠牲。どこへも持っていきようのない、激しい憤怒。
 道はひたすら、のぼりになる。六千尺(約1800m)以上の山嶺である。軍旗は二貫目(約6kg)の重さがある。息が切れてくる。目がくらんでくる。肉体の生きうる限界!
このようにしてまで、なぜ軍旗を持って歩かねばならないのか。なぜ兵隊の生命を犠牲にしても守らねばならないのか。軍旗とはいったい何であろうか。単なる布切れに過ぎないのではないか。
 長中尉はついに歩けなくなる。しゃがみこんで、荒い呼吸を続ける。全身につめたい脂汗が流れる。
 山は深い闇にとざされた。だが歩かねばならない。
 ――軍旗は捨ててはならない。それは軍律のためでもなく、名誉のためでもない。それがわずかに生き残った生命に、死の底からはいあがる力と希望を与える。個人と同じように、集団には、よりどころが必要なのだ。人間は、いつでも、何かの旗を求める。旗のために生きたがる。旗のために死にたがる。旗のために。
 平原には日本兵の死体がるいるいと横たわり、白骨をもってうずめつくすにいたった。
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 無知無能の将軍の率いるインパールの戦闘は、日本軍の惨憺たる敗北に終わった。
内山敏はインパール作戦についてこう書いている。
 「もはや作戦の名でよばるべきものではなく、一将軍の個人的野心のため多数の将兵を犬死させた無謀な猪突にすぎぬものであった。陸軍報道班員としてインパール攻撃に参加した高木俊朗のルポルタージュはこのことを余すところなく語っている。
これほどまで無謀で愚劣な攻撃は、文明国の戦争の歴史に見出すことは困難だろう。1944年春の日本軍や大本営には、もはや冷静に情勢を判断する能力がなかった。」
昭和19年から昭和20年の無条件降伏するまで、ビルマ方面軍の日本軍総兵力は地上部隊三十万三千五百一名、そのうち生還したものは地上部隊十一万八千三百十二名であった。