ケヤキを守る市民たち <井上靖の小説「欅の木」>


 井上靖の小説「欅の木」のなかで、ケヤキを守る会をつくった市民たちが講演会をひらき、市民が演壇に立って話をする場面が登場する。昨日書いたのはその一人、ケヤキを守るために自分は命を捧げてもいいと戦地から手紙を送って戦死した弟のこと、銭湯の主人の話だった。
もう少し別の人の話を書いておきたい。心にひびく庶民の話だからである。つづいて演壇に上ったのは、八百屋のおかみさんだった。
 「けやきの木のことを話すとなると、あんたがた、たくさんあってどうしようもありませんがな。」
 おかみは、涙声で話し始めた。
 「わたしの子どもは、けやきという名前でした。女の子です。五歳で死にました。自慢じゃないが、ほんとうにいい子でした。なぜその子に、ケヤキという名をつけたかというと、わたしの実家は代々武蔵野の百姓で、家はけやきの木に囲まれておりました。何十本のけやきの木が風から家を守ってくれていました。そんなわけで、娘にけやきという名をつけたんです。その娘が死にました。家も人手に渡り、それといっしょに家を取りまいていたけやきの木も切られてしまいました。それで、わたしはすっかり生きる気持ちをなくしてしまいました。といって、命数がある以上生きていなければなりません。生きている間、娘の供養のために、実家の供養のために、実家の家を取りまいていたけやきの木の供養のために、何かいいことをしようと思ったんです。これまでに、二十三本、切られかかっているけやきの木を救けてきました。
 世の中というのは怖いものだと思います。けやきの木を、みんな欲得で切ろうとする。ですから、そういう人には金をやるに限る。八百屋をしてもうけた金は、みんなけやきに注ぎ込んできました。大根や人参が、みんなけやきに化けております。でも、一本けやきを助けるたびに、死んだ娘が喜んでくれる。代々家を守ってくれたけやきが喜んでくれる。家にだって、けやきにだって、あんた、ちゃあんと魂があります。だけど、近ごろけやきの木を切るのは、個人ではなくなりました。会社です。こうなると、あんた、わたしひとりの力ではどうにもなりません。」
 八百屋のおかみさんは、もっと大きな組織が必要だと思っていたときに「けやきを守る会」が生まれた、みんな、応援してくれ、と話を結んだ。
 三番目に話したのは、けやき老人だった。
 「木という木には、みんな魂がございます。私どもが幼いときは、松の木も、杉の木も、けやきの木も、毎日歌ったり、笑ったりしとりましたが、それが最近、みんな泣いたり、悲しんだり、憤ったりしとります。
 私は、けやきだけを特別に考えて参りましたが、半年ほど前、けやきの精が夢に出てまいりまして、自分だけ特別に考えてくれるのは有難いが、もうそういう時ではない。木という木全部をみんな一緒に考えてもらいたい、しきりにそう申しました。考えてみればもっともしごくなことでありまして、私はそれ以来、けやきという替わりに、もっと広く自然というべきだという考えになっております。‥‥‥
 昔の人間は自然に守られておりましたから、心根は優しゅうございました。山を見ると美しいと思い、木を見ると美しいと思いました。今は山を見ても、木を見ても、どうしたら金になるかと考えているように見受けられます。一本の木も切ってはいけないとは申しません。団地を作ることも、家を作ることも必要でございます。ただ、どうしたら少しでも自然を傷つけないようにすることができるか、真剣にその配慮がなければなりません。‥‥‥
 人間はどうして、不遜な考えを持つようになったのでしょう。山は生きもの、川も生きもの、木も草もみな生きものでございます。生きものたちは、互いに助け合って、太古以来繁栄してきたのでございます。‥‥山の一つや二つ、丸坊主にしたって、たいしたことはないと考えている。恐ろしいことです。報復を受けるのは当然でございます。報復の第一として、人間の心はすさみ、ゆがみ、奇妙なものになりました。」
 老人の話は止まらない。とうとう1時間話し続けた。最後にこんなことを言う。
 「過去において、地球上を制覇した生物は、それが持つ最大の長所によって滅亡しているそうです。人類を滅ぼすものありとすれば、やはりその智能でございましょう。智能が謙虚さを忘れ、傲慢になったときであります。‥‥
 人間に人間らしいことを考える時間と静けさを与えよ。‥‥」
 とうとう老人は演壇から引っぱりおろされてしまう。万雷の拍手が起こった。
 この小説は、旗一郎という主人公の家庭、友人、周りに生起することがらを描きながら、ケヤキの木に焦点化していく。   
 ぼくはこの小説から、一つの自分なりの発見をした。ケヤキとは直接関係のないことだが、井上靖の一つの詩の謎が解けたように思ったことがある。そのことを次に書いておこう。(明日へ)