人間にレッテルを貼ること


 人間にレッテルを貼ることは、世間でよくある。「変人」というレッテルがある。ちょっと変わった人ということだが、どこが変わっているのかというと、世間の常識から見て変わっているということになる。みんながこうするということをしないで、みんながしないことをする、変な人だ、となる。空気を読んで、みんなに同調し、波風が立たないようにする人は、「変人」にはならない、常識人になる。「変人」という言葉はそんなに悪意で使われることはない。
 今日は「漱石忌」。小説「坊ちゃん」の主人公を「変人」と言うなら「変人」だ。しかし見方を変えれば、きわめて正当な人だ。南方熊楠なんかは相当な「変人」だった。常識人ではあのような学問の巨人にはなれない。義人・田中正造も「変人」、宮沢賢治も「変人」だ。
 レッテルにはいろいろある。古い村に移住してきた人を「よそもの」と見る。この見方は、移住者の多い地域では現れない。過疎の地方では、Iターン歓迎で、もっとよそから来てほしい。普段は現れない「よそもの」意識も、体制についての新旧の意見や利害の対立が起きると、出てきたりもする。
 日本国籍を取得しているのに、民族が違うと見ると「外人」と呼ぶ人がいる。「外人」というのは「外の人」であって、内の人ではないという意味を持つ。目に見えぬ壁をつくっている言葉だが、日本民族ではない人という意味で使われる。この「内を守ろう」とする想いが強く働くと、排外主義になる。移民排斥運動もその一つ。戦時中、アメリカの市民権もとっていた日本人移民たち11万余人は、強制的に収容所に入れられ、砂漠のなかの強制収容所で戦争が終わるまで、過酷な生活を強いられた。その中に井口喜源治の研成義塾出身者で、シアトルに渡って穂高倶楽部を作った70数名も入っていた。アメリカのようなデモクラシーの国でも、戦争になれば日本人は「危険分子」にレッテルを貼られてしまう。
 波風の立たないところで波風を立てる活動を起こすとどうなるか。行政批判をともなう市民運動だと、庶民からもなんやかやとレッテルを貼られることがある。今年春、地元の産業廃棄物処理施設反対の運動が、「アカ」がやっていると言われた、と聞いて、なんとまあ時代がかったレッテル貼りだとあきれた。「アカ」というレッテルは戦時中からあった。反体制の共産主義者を攻撃するために権力が使い、国民も同調して使った。それが今も庶民の中に生きている。この「アカ」という言葉を使った人は、「アカ」イコール今の日本共産党というふうに意識しているのではないだろう。日本共産党の支援する市民運動もあるが、それが「アカ」がやってると非難されることもあるとしたら、時代錯誤もはなはだしい。
 このごろ領土問題がややこしくなり、そこへもってきて北朝鮮の動きが要注意ということになると、中・韓・北朝鮮についての意見によっては「売国奴」とか「非国民」とか、軍国主義の亡霊がうごめきだしたようなレッテル貼りも起こっている。
 安曇野市政を考える市民運動に対して、「全共闘がやっている」というレッテルが貼られているというのも聞いた。「全共闘」はもう40年以上も前の話で、ぼくはそれを聞いたとき、
全共闘の闘士だった人も、会社に入って猛烈企業マンになって働き、学生時代がどうであれ、人間は完全に変わっていますよ」
 とあきれて言った。過去の前歴、遺物を引っ張り出して人を決め付けるばかばかしさ。人間はその時代のなかで生き方を作り出し、変化していくものだ。
 この日本、いろいろ問題を抱えて、困難を極めている。そのなかでの選挙戦が行なわれている。多党混戦、当事者たちは、相手側を罵倒しレッテル貼りすることに一生懸命だ。罵倒文化をリードしてきた週刊誌メディアに、政治家たちの罵倒合戦、国民もその影響を受けて、なにがなにやらややこしく、政治不信が深まるばかりだ。