神戸・大阪 <今を生きる>


宝塚から阪急電車に乗る。今津で阪神に乗り換えた。ぼくはぼんやり電車内の人々を観ていた。大阪で生まれ育った自分には、関西の空気は産湯のように肌になじむ。
息子夫婦の住む六甲山麓の街は、阪神大震災の傷跡も見えない清潔な環境に変わっていた。朝、マンションの窓を開けたら眼下の公園のセミの大合唱がやかましいほどだったと、七月に一週間ほど息子の家に滞在して帰ってきたワイフは言っていたが、九月のこの日、昼下がりの暑気は一向に衰えを見せないにもかかわらず、セミの声はまったく聞こえなかった。なぜだろう。
3歳になる孫娘は、首を長くして待ってくれていた。ぼくは担いできたザックというかバッグというか、そのなかに、カボチャとゴーヤをおみやげに入れて持ってきた。重いからやめたらと、ワイフは言ったが、なんのこれしき、15キロほどだ、若いころは60キロを担いでいたんだからといつもの「平気のパターン」で詰め込んだのだった。その他の野菜も入れたかったけれど、暑さでいたまないものだけ持ってきた。おみやげにもうひとつ、進さんの家の近くにある「道の駅」で買った、今朝あいさつしたオバサンが作ったオハギとアンコロモチがあった。嫁のリエちゃんはモチが大好きと言って喜んでくれたから、持ってきた甲斐があった。午後一時になっていたが、三人は一緒に昼食を食べたいからと食べずに待ってくれていた。冷やしそうめんの昼食はおいしかった。デザートはオハギとアンコロモチ。生まれて40日あまりの赤ちゃんは、すやすや眠っている。 
マンションは南北方向の棟に建てられていた。惜しいことに東西の窓からは、六甲の山風も、瀬戸内海の海風も入らない。でも一台の扇風機で十分過ごしやすかった。じいじは3歳の孫娘の、しばらくの遊び相手になった。
午後三時ごろに夕立があった。それがやんでから、いとまごいをした。駅まで川沿いの道を歩いて、孫娘と息子が見送ってくれた。この日の訪問は、遅ればせながらの出産祝いだった。
次は大阪の教え子訪問だ。
大阪駅は増改築されすっかり変わっていた。昔歩いた通路も分からない。デパートも、これまでの阪急、阪神、大丸のほかにまた増えていた。「押せ押せゴンボ、押されて泣くな」、子ども時代、おしくらまんじゅうをしながら、子どもたちは歌った。ゴンボはゴボウのこと。たくさんの人が無言で歩いている。街はどんどん変化している。経済発展、経済発展、押せ押せゴンボ、押されて泣くな。
マー夫妻の家は大阪市の外辺にある。昔は農村地帯で、そこにあった古い村は、すきまもなく建った建売住宅やマンションに埋まっていた。夜、ミノル君夫妻もやってきて、食事をしながらおしゃべりをした。ミノル君が手作りしたブタマンとピザがなかなかおいしかった。
「今の仕事も終わりかなあ。シャープもパナソニックもあぶないなあ。自分はこれから何をするかなあ」
「ブタマンとピザの店を開いたらどうや。おいしかったらはやるよ」
とぼくは半分冗談、半分本気で言う。昔、CWニコルさんに会いに行ったことがある。黒姫高原の南さんという人のペンションに泊まってアファンの森を散策した。南さんは大阪出身の人で、報道写真家だった。南さんはこんな話をしてくれた。ペンションを建てたいと思った南さんは、資金を作るために阪奈道路の生駒を越えた奈良側でコロッケの店を出した。屋台のような店だったか、ちゃんとした店だったか、覚えていないが、それが大繁盛した。阪奈道路を通って大阪から帰ってくる人たちが、コロッケを買っていく。コロッケしか置いてない。目の前で揚げている。温かくて、おいしくて、それが受けた。南さんは、儲かった金をペンションの資金にして夢は実現した。南さんはそのころ、ペンション経営と写真家をやっていた。ニコルさんの出版する本のなかに彼の撮影した写真が載っている。
さてどうする。マー夫婦もミノル夫婦も、これからやってくる還暦後の人生について考え始めていた。
マー君の書棚に教育雑誌「楽しい授業」が並んでいた。仮説実験授業の会の発行する、実践と研究の記録を載せている雑誌で、この本がまだ存在していたことをぼくは知らなかった。マー夫妻は、小学校の講師をしている。
「えー、廃刊にならずに続いていたかあ、すごい」
太郎次郎社の「ひと」も廃刊になり、民間の教育研究会は風前の灯のような状態にある現代社会、すぐれた出版物が滅びていくということは何を意味するか。日本の教育は弱体化し、教師は創造力を失い、学びが劣化している。それは民間教育団体が滅びて、教育雑誌が廃刊になることとつながっている。子どもも「箱」の中、教師も「箱」の中にいて、本当の世界を知らないままに疲れて意欲を失っている。教育行政は上から通達を出し、学校長はそれを受けて上意下達、自由な実践が狭まれば狭まるほど、楽しい学校は沈滞していく。いじめ問題も、対症療法ばかりで根治療法がない。
翌朝、マー君夫妻の出勤に合わせて、ぼくもザックを背にしてマー君のマンションを出た。駅に向かう途中、道際に扉がいくつも並ぶ低い屋根の棟があった。震災の仮設住宅よりももっと粗末な建物だった。ここは一軒が6畳一間のアパートで、高齢者が住んでいるとマー君が言った。ホームレスにならずに、建物に住めるだけでもいいということか。駅近くに来たら、電車の高架の下に置かれたベンチに何人もの人が座っていた。熱波の季節、日差しが避けられ、風のとおりのあるここは、庶民の憩いの場所になっているようだった。