今日は沖縄慰霊の日 <琉球出身の山之口貘の詩 >


 今日は、「沖縄慰霊の日」だ。
 山之口貘の友、金子光晴は、こんなことを書いている。
 「僕がまっ正面な抗議のような詩を書けば、彼は、日常のなかのユーモアでそれとなく反戦を仮託する。貘さんの反戦のイデーは、イデオロギーなどといういい加減な、反戦がすぐ好戦に変わるような、わがため主義からではなく、もっと、人間の本心に根ざして、彼という個人から発したものであった。そういうわけでは貘さんの詩は、みんな反戦詩だとみることもできる。かくれたつなが、すべてをそこへ結び付けているのを、はっきりした眼には、みることができる。しかし、彼にとっては、もちろん反戦が全部ではない。人間が全部なのだ。」


          雲の下

   ストロンチウム
   ちょっと待ったと
   ぼくは顔などしかめて言うのだが
   ストロンチウムがなんですかと
   女房がにらみかえして言うわけなのだ
   時にはまたセシウムが光っているみたいで
   ちょっと待ったと
   顔をしかめないではいられないのだが
   セシウムだってなんだって
   食わずにはいられるもんですかと
   女房が腹を立ててみせるのだ
   かくて食欲は待ったなしなのか
   女房に叱られては
   眼をつむり
   カタカナまじりの現代を食っているのだ
   ところがある日 ふかしたての
   さつまの湯気に顔を埋めて食べていると
   ちょっとあなたと 女房は言うのだ
   ぼくはまるで待ったをくらったみたいに
   そこに現代を意識したのだが
   無理してそんなに
   食べなさんなと言うのだ


 貘さんは、1903年(明治36)、沖縄で生まれ、1964年(昭和39)に没した。
 この詩は、福島原発事故よりもはるか昔に作られたものだが、今これを読むと、まさに現代の状況そのものではないか。生きるためには食わずにおれず、食えば体がむしばまれる。放射能は目に見えず、目に見えないものがはるか未来まで続きそうな気配なのに、今の暮らしを成り立たせるという理由で、原発依存を続けていこうとしている。かくして人類は、底なし沼の文明に足をとられ、がんじがらめだ。
 沖縄の基地は、戦後67年たっても、沖縄の人たちを縛り続けている。人間の作ったものであれば、人間の力でなくせるはずだが、人間の脳がそれを拒む。
 貘さんは叫んでいた。

    まもなく戦禍の惨劇から立ち上がり  
    傷だらけの肉体を引きずって
    どうやら沖縄が生きのびたところは
    不沈母艦沖縄だ
    いま八十万のみじめな生命たちが
    甲板の片隅に追いつめられていて  
    鉄やコンクリートの上では
    米を作るてだてもなく
    死を与えろと叫んでいるのだ
       (「不沈母艦沖縄」)