「味わわせる」という言葉



英ちゃんから封書が来た。何だろう。
3月11日、大阪・藤井寺の故郷の店で会って、英ちゃんと年彦の三人で食事しながら語り合っていたとき、東北地方に巨大地震津波が押し寄せ、たいへんな惨劇が起こっていたことは歓談中の三人は想像もしていなかったと、切り出しに書いている。
三人は小中学校時代の同窓生だ。
英ちゃんは人生も余生の段階にはいってから文学学校で学び、小説を書いて同人誌に発表している。
手紙の中で、彼は一つ質問を出していた。
「味わう」という言葉について、これは食べ物を味わうだけでなく、「苦しみを味わう」というように、体験して感じるときにも使うが、
それを人にやらせる場合、言葉としてどうなるか、というものだった。
同人誌に寄せられてくる作品を編集していて彼は疑問をもった。
ある人は、「私は自分と同じように大切なもの失った苦痛を彼にも味わせてやろうと思った。」と書いている。
英ちゃん自身は、「私は自分が体験した片親の悲哀を娘たちに味あわせたくなかった。」と作品に書いた。
文法的には「味わわせてやろう」「味わわせたくなかった」となるのだろうが、というものだった。
彼のこの疑問を考えていて、思いが広がっていった。


文法的には、「味わう」に、使役の助動詞「せる」がくっつくのだから、「味わう」の未然形「味わわ」に「せる」、イコール「味わわせる」となる。
ところが使う人によってこれが、変形したりする。
一つの原因は、「わわ」と続く言い方が、言いにくいことがある。
そこで「味」に「合う」がくっついた形にスライドして、「味あう」に「せる」がくっつく形にして使う人が出てきた。
またある人は、「わわ」を「わー」と引っ張って、「味わーせる」と言い、それが「味わせる」と短縮した。
日常的なものの言い方、会話言葉は、言いやすいように使われる。それが文法とは異なる言い方を生む。


「味わわせる」と言いたい頻度は、たぶん少ないだろう。
人に、体験をさせる、
「本を読ませる」
「食事を作らせる」
という使役の言い方は、よく使う。
しかし、「味わう」というのを他人に「させる」のは、他人の感性、心への働きかけである。「味わう」というその人の内面的なものは、その人が自発的にやってみなければできない。およそ使役なんかではなく、本人の主体的な働きである。
だから頻度が少ない。


このごろTVなどで、スポーツ選手が、
「みなさんに感動を与えることができたら、うれしいです。」
「喜ばせるようにプレイしたいです。」
という言い方をしているのを聞いていて、「なんだ、その言い方は」と思うことがあった。
「感動する」「喜ぶ」は、結果としてファンの心に作用するけれども、選手が観客に与えようとしてやるものでもないし、観客の心に「やらせる」ものではあるまい。
言うならば、
「みなさんに感動してもらえれば、うれしいです。」
「喜んでいただけるように、プレイしたいです。」
ではないか。
全力をあげてプレイするスポーツマンの姿のどこにも、他者への使役などない。
自分の人生を生きる、ひたむきで謙虚な姿である。
だから観る人は感動する。


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