「風景は思想である」 学校林、寺社林、屋敷林



 かつての日本の、暮らしと調和した田園と村の風景が、どうしてこうも魅力のない不協和音のようなものになってしまったのかと、安曇野においてすらあきらめに近い思いをぼくは持っていた。
 93歳にして好奇心、創作意欲ともに盛んな画家の堀文子が、
「風景は思想である。」
と語っているのを聴いて、そういうことだなあとわが意を得た思いだった。
 敗戦後の日本が1960年ごろから高度経済成長期に入ってバブル化していくその道程は、彼女の眼から見れば醜い金権主義の跋扈であり、たちまち日本の風景は経済至上主義の思想によって切り刻まれ破壊された。
「だから私は日本を脱出したのよ。」
と彼女は言った。
 ドイツ、フランス、イタリアをはじめとして、ヨーロッパの国々を旅すると、歴史の中でつくられてきた風景の伝統美が、経済性に左右されないで住民によって守られている。住民たちは、この一本の木は残そう、あの林はそのままにしようと、だれの所有であっても地域の一体観にもとづき、その価値を全風景の中の調和において守ってきた。
「ヨーロッパの田舎の村に行くと、レオナルド・ダビンチが今にも現れてくるのではないかと思った。風景は思想なのよ。思想が存在するのよ。日本の風景には思想がないの。昔はあったのに、経済大国になってからはそれがなくなった。くやしいね。」
 

 今年、地域のあちこちの樹にアメリカシロヒトリが発生し、我が家でも庭の樹を見上げて観察すると、葉っぱが白くレースのようになって、クモの糸のような白い幼虫の巣が葉についているのを見かけた。
急いでその部分を切り取ってみると、中にアメリカシロヒトリの幼虫がうじゃうじゃといる。ほうっておくと、樹を丸坊主にしてしまうから、幼虫を焼いてしまう。
 日本の風景の中から、とりわけ学校の校庭から、高木が消えていったいきさつのなかに、アメリカシロヒトリがからんでいると、『雑木の名と民俗』(川辺書林)のなかに宮澤文四郎が書いている。宮澤は信州の高校で国語教師をしながら信濃の民俗や樹木のことを書いてきた。
その中に「ポプラ 減り続ける学校の緑陰」という章があり、思いがけない記事があった。
 
 1948年、東京、神奈川の街路樹に大量の毛虫が発生し、たちまち樹を丸坊主にしてしまった。その毛虫はやがて全国に広がる。それがアメリカシロヒトリだった。
 1945年11月、東京の大森で最初の幼虫が発見されたことから、アメリカ軍がこの虫の侵入に関係しているのではないかと推測している。アメリカ原産で、火取り蛾(灯火に集まる蛾)ということから、アメリカシロヒトリと名づけられた。アメリカ占領軍のGHQは、害虫にアメリカの名を冠するのはけしからんと、待ったをかけたが、アメリカでも日本から侵入したコガネムシに、ジャパニーズビートルと名づけていたことを反論して、この名はその後も生き続けた。
 アメリカシロヒトリは、超雑食性の強い虫で、330種の植物を食い荒らす。桑の木、カシグルミ、柿、桐、桜、ポプラ、イチョウ、なんでもかんでも食い尽くしていくから、農薬をまいたり、虫のついている枝を切り取ったりしていくうちに、困ったことになった。農家の手が回らない。結果として伐採がなされた。
 それが学校にも及んだ。学校は緑に包まれ、信州の学校にはポプラも桜も高々と茂っていたが、学校の人手不足から、とうとう樹の伐採にいたってしまった。
「村人は校庭のサクラの花見ができなくなり、子どもたちは緑陰を奪われた。風が吹けば校庭は砂塵を巻き上げる砂漠となり、学校は禿げ山学校となった。」
 思想なく、ビジョンなしの地域は荒廃する。宮澤氏は、今こそ学校に樹木を取りもどそうと力説している。


 我が地域の堀金中学校は、校舎の屋根を越す高木の林が前庭を埋め、桜の季節には、滝廉太郎の『花』の合唱が聞えてくる。秋の紅葉時期になると、舞い落ちる紅葉が庭を埋め尽くし、学校の原点を見せてくれる。卒業生にとって、母校は森の学校である。
 8年前に暮らした中国の武漢大学はまさに森の大学だった。東湖という湖に面し、キャンパス内に山があり森があり、ウサギが住んでいた。四季を通じて鳥がさえずっていた。学生と暮らしたそこでの一年間は、夢のように楽しかった。
 森の学校は心を育み、人生の心のよりどころとなる。
 

 今年9月に運動会やその練習で、たくさんの子どもたちが熱中症になったという。子どもの体力、暑さに耐える力が弱くなっていることは、その生活スタイルにも起因する。外遊びしない子どもたちにその力は育たない。
 暑いときでも子どもたちが校庭で遊びたくなる学校環境が理想なのだ。動植物の命豊かな学校を住民の力でつくれないか。
 必要なのは学校林をつくる思想である。
 寺社林、屋敷林も守る。
 地域の公園にも林をつくる。
 子どもの群れる愛すべき地域は、地域住民の思想と実践があってこそ実現できることだ。
 地区を魅力あるところにするために、住民がそのビジョンを画く。そこから派生して生まれる稔りは多いことだろう。