失ったもの 訪れるもの


 福永武彦の詩と伊藤整の詩、二編の詩を贈ります。
 愛するものを失った人たちと、愛するものを失った人たちに心を送る人たちへ。


     ひそかなるひとへのおもひ

    1  
   みんな行ってしまった
   あの松の林をわたった風のいぶきも
   輪まはしをしてゐた 少年の姿も
   港を出て行く通ひ汽船のさびしい汽笛に
   ぼくたちが首をあげて  遠い日をおもったやうに
   みんないつのまにか行ってしまった


    2

   戸田ではあひかわらず春になると
   桜の花はみさきの砂浜に白く散り  
   子供たちの遊んでゐる石畳の上には
   魚のにほひが幽(かす)かにこびりついてゐるが 
   ぼくたちがむかし愛したやさしさも  たのしさも  そして心も
   みんないつのまにか行ってしまった


    3

   うち海の潮の蒼(あお)さをうつした頬に
   月の光はしづかにゆらぎ
   貝がらのかたい心によせる
   おもひをひとは知らなかった
   日を越えて褪(あ)せぬ愛はありながら
   あの頬の白い涙も  ほほ笑みも  そして夢も
   みんないつのまにか行ってしまった

    4

   だるまの山にはやはり風が立ち
   戸田の海には夜光虫がきらめいても
   死んだひとは帰らない  もう帰らない
   そして青春も  希望も  かなしいいのちも
   みんないつのまにか行ってしまった
  
   

     良い朝

   今朝ぼくは快い眠りからの目覚めに  
   雨あがりの野道を歩いて来て
   なぜかその透きとほる緑に降れ  その匂いに胸ふくらまし
   目にいっぱい涙をためて
   いろんな人たちの事を思った。
   私の知って来た数かずの姿
   記憶の表にふれたすべての心を
   ひとつひとつ祝福したい微笑みで思ひ浮かべ
   人ほど良いものは無いのだと思ひ
   やっぱりこの世は良い所だと思って
   すももの匂いに
   風邪気味の鼻をつまらし
   この緑ののびる朝の目覚めの善良さを
   いつまでも無くすまいと考えてゐた。