良い人、悪い人


芥川龍之介の児童文学『蜘蛛の糸』、大泥棒カンダタは、人を殺したり、家に火をつけたり、いろいろな悪事をはたらきました。
それがためにカンダタは、死後地獄に落ち、血の池地獄で苦しみます。
それをお釈迦様がご覧になります。
カンダタは生前一匹の蜘蛛を踏み殺そうとするが、
「いや、いや、これも小さいながら、命あるものにちがいない。その命をむやみにとるということは、いくらなんでもかわいそうだ。」
と思って助けてやったことがります。
お釈迦様はそれを思い出し、極楽の世界から一本の蜘蛛の糸を血の池のカンダタの頭の上に下ろしてやります。
カンダタはその糸を伝って血の池地獄から脱出を図りますが、途中で下を見るとぞろぞろ自分の後からたくさんの罪人が糸を伝ってきます。
こんなに上ってきたら糸が切れる。恐れたカンダタは、
「この糸はおれのものだ。おりろおりろ。」
と叫びました。とたんに、目の前で糸が切れて地獄へまっさかさまに落下してしまいました。
お釈迦様は、それを見て悲しそうな顔をなさいます。
自分だけが助かろうとした心のゆえに、またもや地獄の苦しみにもどらなければならなかったのです。


カンダタは犯したたくさんの悪事のゆえに、地獄に落とされました。
ところが、一回の善があったから一回の救済のチャンスがもたらされます。
それも自分だけ助かろうとしたことで、一回のチャンスも失ってしまいました。
悪事を働いているときのカンダタは悪党です。
一匹の蜘蛛を助けてやっているときは善人です。


ところで、人はよく、あの人は良い人だ、あの人は悪い人だ、と言います。
あの人は優しい人だ。あの人は冷たい人だ。
あの人は、賢い人だ。あの人は、馬鹿な人だ。
あの人は、勇気のある人だ。あの人は、臆病な人だ。
あの人は、責任感のある人だ。あの人は、無責任な人だ。
人は人を評価します。
他の人を評価して、しばしば決め付けます。
カンダタは極端に、99の悪に対して、1の善ということになっていますが、
一人の人の中には善もあるし、悪もある。
優しい時もあるし、冷たい時もある。
責任を持って行動するときもあるし、無責任になるときもある。
自分の中には、いくつもの面があります。
「あなたは賢い」と言われても、「いや、私は賢くない」と自分を評価することもあります。


日本は韓国を併合して、日本の一部にした歴史があります。
その韓国統監府初代統監といういちばん責任ある役に付いた伊藤博文は、ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺されました。
暗殺される前のスピーチでは、「戦争が国家の利益になることはない」と語っています。
伊藤博文は日本では高い評価をされています。
伊藤博文を暗殺した安重根は、捕らえられて処刑されますが、韓国、朝鮮の人たちは安重根を英雄として讃えています。


人は人を評価します。裁きます。
自分もまた自分の心のなかで評価し、裁きます。
なぜあの時、あんな行動や態度をとってしまったんだろう。
後から思い起こせば、あの時の自分の浅はかさ、思慮の足りなさに思います。
そのときの薄情、冷淡さが、あくどさ、傲慢さが、けちくささ、非寛容さが、横暴さが、
きりきり心を切り刻む悔恨の念となって胸にうごめくことがあります。


70年も前の戦争体験で自分の犯した悪に苦しみながらこの世を去っていく元兵士がいます。
70年の間、自分の犯したあやまちを、自分で許すことがなかった。
心の中に悲しみをたたえたまま、この世を去っていく人たちがいます。