菅下ろしと報道のなかに潜むもの

 


声の欄に、こんな投書が掲載されていた。
Aさんの投書。要旨は、
「私は、菅さんの顔は見たくない。理由は、大震災や原発事故の対応のまずさ、危機管理力のなさもあるが、それだけでなく国民の暮らしが第一というキャッチフレーズを掲げながら、それとはかけ離れた政策や言動への不信があるからだ。政治家は誠実であってほしい。菅さんはもう辞めるべきだ。」
Bさんの投書。その要旨。
「菅さんを辞めさせよという動きがある。政策に対する不満は私にもたくさんあるが、マスコミも一緒になっての退陣論が世論を作っているようで、世論を作っておいて、世論に従えというのも分からない。この危機のときに菅さんが辞めればいいというのは分からない。菅さんは、辞める必要がない。」


Aさんの言う、菅内閣の震災対応のまずさ、危機管理力のなさ、言行不一致、政策実行力のなさ、というのは、そういう情報があったからだろう。
が、どのようにまずかったのか、それは菅首相だったからそうなのかなど、具体的なことは何も分からない。
だからBさんの言うとおり、何が退陣の理由になるのか、本当のことは分からない。
「菅さんは何もやっていない。」と批判しいているTV評論家やジャーナリストがいた。「何もやっていない」というのは事実報道ではなく、発言者の感情表現である。
「国民は菅さんに愛想をつかしていますよ。」
この手の言い方は子どももよく使う。
「友だちみんな買ってもらって遊んでるよ。」
と、親にねだっている。
「みんなというのは、誰?」
親が聞くと、「みんな」は数人である。


世論調査なるものが引き合いに出されるが、この調査そのものが「あいまいな情報に基づく判断」である。
批判言論のうちの、かなりのものは感情表現のようである。
最も直接的なのが国会のなかでのヤジという「ののしり」である。
嫌悪感、怒り・憤懣、いらだちなどの感情が、批判者のなかにある。したがって論は極端になる。
さらに、対立とかけ引き、権力奪取の意図があるものの言論は、世論を味方に付けようとする感情が加わる。
国民は、メディアの流す情報によって、社会や政治をとらえるしかないから、感情表現には要注意である。
感情表現は事実ではない。


「五十歩百歩」ということわざがある。
中国の戦国時代(BC403−BC221)、梁の恵王は、自分は善政を施しているのに自分の国の人口が増えず、善政もしていない隣国の人口が減らないのを嘆いて、孟子に問うた。
孟子は答えた。
「戦いの中で、五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を笑ったとしたらどうでしょう」
王は答える。
「五十歩でも、逃げたことには変わりはない」
孟子が言う。
「恵王がなさっている善政は、程度の差はあっても、隣国と本質的な違いはないのです」
この話から、「五十歩百歩」は、
「程度の差はあっても、本質的な違いはないこと」
転じて、
「似たりよったりである」「少しの違いだけで大差のないこと」
という意味に使われるようになった。


ところで、視点を変えてみる。
恵王の「自分は善政を施している」というのは想いである。
「自分の国の人口が増えず」というのは事実かもしれない。
「善政もしていない隣国」は主観的評価、
「隣国の人口が減らない」は客観的事実。
そして「嘆いた」という感情発露。
そこで孟子が答えた。
「五十歩逃げた者が、百歩逃げた者を笑う。」
「五十歩逃げた者、百歩逃げた者」がいたというのは事実。
では、この「笑い」にはどんな気持ちが含まれているか。
この「笑い」のなかに評価がある。
自分のほうがまし。あいつは卑怯者だ、弱虫だ。
自分のことは棚に上げて、相手を批判し嘲る。
人を評価するのは人間の性(さが)で、
あの人はいい人だ、この人は悪い人だ、
あの人は親切だ、あの人は冷たい人だ、
いろんな評価がある。
優しい人、いじわるな人、賢い人、無能な人、役に立つ人、邪魔な人、献身的な人、功利的な人、楽しい人、うっとうしい人、明るい人、暗い人、‥‥。
評価は、評価する人のモノサシによる一面の評定であり、主観である。
評価のモノサシのうえに、さらに相手に対して持っている感情・思いが関係してくる。
好感が持てる、親しい気持ちをもつ、などなど。
社会の中で、自治体でも、企業でも、学校でも、そこで行われる人事というものは、人事権を持ったものによる人物評定によってなされているが、人間関係・仲間意識、評価するものの感情が影響している。
だから国政だけでなく、地方自治体でも、天下りがある。


中国の上海で某研究者が、「日本の国民は一流、官僚は二流、政治家は三流。」と評価したのが話題になっているという報道があった。
なるほど一面をとらえた風刺的な表現で、そう言いたくなる、すなわち感情表現だなと思う。
だが、政治家が三流なら、そういう政治家を選んだ国民も三流であるということではないか。


報道をどう聞いたか、どうとらえたか、どう考えたか。
冷静に、感情的評価を排除して事実を掘り出すことだと思う。
社会の状況、現実を観察し、行政がどのように行なわれているか、見極めなければならない。
今日も新聞に、「居すわる菅」という見出し。
「居すわる」は、事実か主観か。
そして新たな報道があった。
自然エネルギーの導入・普及をもくろむ菅首相に対する「政・官・業」の反対包囲網である。
今回の原発事故は国民がだまされてきた結果ではないか。
またもや国民をだまそうとするひそかなたくらみがありそうだ。