じいさんは、
「目がつぶれるぞ」
それだけ言った。
じいさんは一日田んぼで働いてきた。
夕飯を食べ終わったぼくの茶わんに、一つ残っていた飯粒。
ぼくは茶わんにくっついた一粒をつまんで食べた。
麦畑にヒバリが巣をつくった。
ヒバリは麦の中から舞い上がって、ひとしきりさえずると畑に急降下する。
畑から帰ってきた叔父は、
「ヒバリの巣をとったら、勉強できんようになるで」
と言った。
縁側から庭に、おしっこした。
「ミミズにおしっこがかかるよ。おしっこをかけたら、ちんちんがはれるよ」
母が言った。
生き物を殺したり、食べものを粗末にしたりしたら、
「そんなことをしたら、罰(ばち)が当たるよ。
無駄な殺生はしてはいけないよ。」
昔の大人は、子どもたちに、
「そんなことしたらいけないよ」と言うかわりに、
「そんなことをしたら、罰が当たるよ」
と注意した。
目に見えぬ神様がいて、人間の行動をいつも見ているよ、
ご先祖様は、しっかりお前たちを見ているよ、
だから、悪いことはできないんだよ。
科学が進歩して、そんなの迷信だと、子どもたちは信じなくなり、
行動を律する基準は合理的かどうかになった。
損になるか、得になるか、
便利か、不便か、
速いか、遅いか、
楽か、しんどいか、
快適か、不快か、
邪魔になるか、邪魔にならないか、
それが基準になった。
いらなければ捨て、
害になるなら殺し、
邪魔になるならつぶしてしまう。
そんなに除草剤をまかないでください。
田の神様を滅ぼすことになります。
無数のアメンボや、ゲンゴロウや、
ミズスマシや、ミジンコがいた池や田んぼ、
今は一匹の姿もない。
昔、子どもたちが、名づけていた水生昆虫に、
「郵便屋」という小さな虫がいた。
水面を「郵便屋」は音もなく歩いていた。
「ふうせん」という虫は、水中を上がったり下がったりして泳いでいた。
今日、水田に一匹のアメンボを見つけた。
おお、なつかしい。
かの大和の野には、
石の地蔵様が、
あっちにもこっちにもたっていた。
野の道の小さなかわいい野の仏。
こんな現代でも、どなたがやってくださるのか、野仏には、いつも野の花がお供えされていた。
ぼくは今も、茶碗に飯粒一つも残さない。