安曇族の祖先、日本人の祖先



 

安曇野には、船のへさきのような形をした装飾を大屋根の先端に取り付けた家があちこちにある。
本を開いて伏せたような切妻形の屋根は、伸びやかに広く、見るからに大屋敷といった感じである。
安曇野に来た当初、これが船の形であるとは気づかなかった。
地元の人から聞いて、そう言われればなるほどと合点が行ったが、
ではなぜ、この山国に船の形があるのか疑問が湧き、それについては、ここは海洋で活躍した安曇族が開いたからだという説明だった。
穂高神社にもその説明坂がある。
いま、『安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』(亀山勝 龍鳳書房)を読んでいる。
これがとてもおもしろい。著者は大学の研究者や、学者ではなく、水産試験場や漁協、水産資源関係の仕事に長年従事してきた人で、現在は漁村文化懇話会の会員である。
現場で活動してきた民間人だから視野が広くて、文章が明快でわかりやすく、多くの学者の研究と仮説をもとに日本人の祖先を考察する文章に力がある。


「徐福」という名前にぼくが出会ったのは5年前、中国の青島だった。
まだ二十歳ぐらいの研修生の若者が、高校で習ってきた日本語教科書を持っていて、それを見せてくれたのだが、そこに中国から古代の日本に渡った「徐福」の物語がでていた。
「徐福」と広辞苑で引くと、秦の始皇帝(前221〜前206)の命で、東海の三神山に不死の仙薬を求めたという伝説上の人物、日本に渡来し、熊野または富士山に定住したと伝える、とある。
中国のその教科書は、昔の中国と日本の歴史はひじょうに近い関係であったことを、古代から現代に至るいくつもの友好的なエピソードでつづる内容であった。


亀山氏は、縄文時代はいつまでで、弥生時代はいつからか、仮説は分かれるところから話を始めている。
稲作がいつから始まったのか、それは縄文時代後期、あるいは4500年ほど前の中期までさかのぼる可能性があると推測している。
縄文時代人は日本列島で陸地でも水田でも南インドから入ってきた米、熱帯ジャポニカを栽培していた、BC10世紀ごろには、灌漑や畔などをそなえた本格的な水田をつくって栽培されるようになっていた、その後中国大陸から水田稲作だけに適した温帯ジャポニカが入り、それらが発展して弥生の産業改革につながった、と考える。
稲作を誰が伝えたか、すなわち人がその技術を持って、日本列島に移住して来たというわけである。
縄文時代人は、BC5世紀以前に日本列島に来た人たち、弥生時代人はそれ以後、したがって弥生時代には、新たに中国、朝鮮から渡来した人たちと縄文人の後裔および縄文人弥生人の混血人が日本で暮らしていた。
このころには、国家がまだできていない。移住してきた人たちにとっては、海を渡って未開地の開拓に入るようなものだったろう。
安曇族と呼ばれる人たちは、中国の春秋時代、故事の「呉越同舟」の呉越、呉の国と越の国が戦争して、BC473年に滅びた呉の国の人たちが海を渡ってきた、その人たちが母体だという。


安曇野に入ってきた人たちはどのようなルートで入ってきたか、亀山氏は、諸説をまな板に載せて考察している。
おそらく川筋からだろうが、姫川説、信濃川説、木曽川説、その他を比べている。
大陸から日本列島に来るとしたら、まず九州の福岡から山陰、北陸が上陸地点になる。


現代人は、東京、名古屋、大阪、神戸と、発展した大都会が太平洋側にあることから、太平洋側を表日本日本海側を裏日本と呼び、
実際にそういうイメージももっているが、昔はその逆だった。
日本海側が大陸に開かれたところ、そこが表日本、交易、交流の地だ。
気象が温暖なところに都市が形成されていったために、雪深い山陰、北陸は、「裏」のイメージがくっついてしまったが、実際はそうではない。
日本民族にしても、祖先をたどれば大陸にいたる。
温故知新は、近代国家主義にから生まれた偏狭なナショナリズムを超える。