児童虐待と差別・排外



親が子どもを餓死させた。
暴力を振るって殺してしまった。
親が我が子を痛めつける、これはもう末期現象だ。
生物としても失格者になってきたということか。


元警察官の佐藤氏が、「学校の事なかれ主義を問う」という文章(朝日)の中で、
次のような事例を述べている。
「学校側は、少年のほおなどについたあざを発見した歯科医からの通報を受けるまで、『虐待の疑いがある』ことに気付かなかったという。その後も虐待が続いていることをうかがわせる多くの兆候があるにもかかわらず、校長が家庭訪問で父親に『二度としない』と約束させたからか、死亡する二日前の身体測定でも服を脱がせていない。学校側は『何かあれば言ってくれると思い、暴行のことは尋ねなかった』と弁明し、区教委区委員会は『尋ねることは親を疑うことになり、万一知られたら猛抗議を受ける』と説明していた。」
なるほどと、納得できる学校と区教委の対応である。
納得できるというのは、学校という閉鎖集団はそういうことだろう、と思えるからだ。
教育委員会に至っては、現場の学校と教師と子どもの実態や真実をまったくつかもうともしていなかったことを知っている。
奈良県桜井市の餓死事件では、市の福祉担当課長は、子どもの餓死を見過ごしてきた責任も痛みも悲しみも感じていない淡々とした表情と口ぶりだった。
手抜きして逃避し、保身と弁明に走る。
児童虐待の防止等に関する法律がつくられ、
児童相談所、学校の教職員、児童福祉施設の職員は虐待を受けている児童を救う責務を負うとなっても、
彼らは動かなかった。
法律は紙の上のこと、
児童が死んでしまってからも、彼らの語る言葉は、
責任逃れの、通り一遍の弁解だけだ。
関係機関に報告はした、親には指導した、家庭訪問はしたが子どもに会えなかった、
一応のアリバイ工作はする。
「事なかれ主義」という言葉をもうとっくに通り越している。
教師も児童相談所の職員も児童委員も、児童福祉施設の職員も、虐待を許さないぞ、見過ごさないぞ、という最もベースになる心を失っている。
悲嘆も自責の念も見られない。


学校の中に、弱いものを標的にして、なぶり痛めつけるいじめがはびこりだしたのは30年ほど前だったように思う。
子どもの世界のいじめの構図は、
集団の中で力を持つものが、
一部の子を標的にして、いじめた。
それを見て見ぬふりする傍観者がいた。
矛先が自分に向かないように同調するその他大勢という構図だった。
弱者に矛先を向けることに良心の呵責を感じないその他大勢。
それが虐待社会の特徴だ。


一事が万事だ。
一つの現象は一つのことではない。
差別の構造は、自分より弱い者を下に見る意識を作り出し、
反感をあおり、差別し虐待し排斥する。
そうしてうっぷんをはらし、自己満足し、自分の心をなぐさめる。
在日への差別と排外主義もその一つ。


社会のあらゆるところに、差別と虐待は広がっている。
人間の劣化、
根底にあるのは何だろう。