モッコウバラとネコ

転居とともに大和の国からもってきて植えたモッコウバラが、たくさん黄色い花をつけて今盛りだ。
金剛山麓に住んでいたとき、背戸の畑に隣接していたUさんの奥さんがくださったもので、
今の季節、Uさんの庭のモッコウバラも見事なアーチを描いていていることだろう。
Uさんの家には、ぼくが「貴婦人」とニックネームをつけたふさふさとした白っぽい毛並みのネコがいた。
「貴婦人」はモッコウバラのアーチの下にちょこんと坐って、ぼくが畑に出て作物の世話をしているのを、哲学者の表情をして眺めていた。
ときどき草や作物が茂っている畑のなかに静かに入ってきて、トンボやバッタを見つめていることもあった。
小鳥やカラスが頭上にきても、頭をゆっくりめぐらせて眺めるばかり、
走ったり声を出したりすることは一切ない。
モッコウバラを背後にして、温かい陽だまりに座りつづける「貴婦人」の姿には気品があった。
どうしてあんなにもゆったりと、おだやかに暮らせるのだろうかと、
人間のほうが感心してしまう。


昔、京都嵯峨野の祇王寺を訪れたとき、草庵の縁に座っている一匹のネコがいた。
白い毛並みの美しいネコで、客人が訪れても、声をかけられても、我知らず、
微動だにせず、視線も変えず、端然と座ったまま、
ただただ瞑想にふけるばかり。
この家の主人は私ですが、どうぞご自由にお入りください、
ネコは無言で伝えている。
このネコ、何を考えているんだろう、
と不思議がるのは訪れてきた人間ばかり。


うろたえめされるな、
あくせく生きなさるな、
かりかり腹を立てなさるな、
そうくよくよ悩みなさるな、
人をうらみなさるな、
けちな人生やめなされ、

雨風にさらされてきた小さな草庵の縁側の白い一点は、
人の世俗の超越そのものだった。


煩悩に振りまわされれば降りまわされるほど、
見れども見えず、聞けども聞こえず。
哲学ネコの姿も見えず
出家ネコも目に入らない。


そこにそうして、何ものにもとらわれずに、
おだやかにそのものの命を生きているもの。


Uさんの奥さんからは、タケノコもこの季節よくいただいた。
孟宗竹から掘ってきたばかりのタケノコ。


モッコウバラが咲き、その隣の白バラも咲いた。
白バラは、一重の花弁の素朴な花。
これも金剛山麓の村の、ご近所のMさんから、お別れの記念にいただいた。
一年の一度だけ、
人を楽しませてくれる
モッコウバラと白バラ。