満蒙開拓青少年義勇軍

10月17日に、信州・伊那市にある常円寺で、ひとつの法要が行なわれた。
戦時中、満蒙開拓青少年義勇軍に入隊して開拓にたずさわった老いたる少年たちの生き残りが、
敗戦前後に亡くなった仲間への追悼法要を行なったのだった。
当時、15歳だった少年たちは、今は80代になる。
戦後生き残った人たちは会を作り、慰霊と懇親の集いを持ってきたが、
生き残った人たちもつぎつぎと物故者になっていく。
年齢からして、もうこれ以上の活動は無理だと、最後の法要を行なったのだった。
現会長は、高等小学校を卒業して旧満州に渡った。
担任の先生から、「お国のためには北の守りが重要だ、満州へ行け」と言われて、満蒙開拓青少年義勇隊に入ることを決めたという。
信州には旧満州開拓に渡った人が多い。
満蒙開拓青少年義勇隊に入った少年は、信州で7000人、そのうちの2割が敗戦前後、逃避行や収容所生活で死んでいった。


隣町のAさんに連絡を取ってみたら、お元気そうだった。
敗戦時、食べ物がなく次々に仲間が死んでいき、Aさんも飢え死にしかけたときに、中国の少年がマントウをくれた。
そして中国人の床屋さんに助けられて、生きながらえることが出来た。
Aさんは、命の恩人を一生忘れない。
今も日中友好協会の活動にたずさわりながら、ときどき中国へ出かけておられる。
この11月にも、中国からの招待で北京へ行く予定だとおっしゃられた。
予定している自伝出版は、原稿はかなりできているが、まだ出版する段階にいたっていないということだった。
なんとか早く出版してほしい。


満蒙開拓青少年義勇隊のことで、小林秀雄旅行記を書いていることを、Aさんに話した。
そうすると、日本の歴史ではまだ知られていない事実を知ったことを話され、Aさんが翻訳した記録を昨日送ってくださった。
日本の侵略のなかの、隠された事実だった。


ところで、小林秀雄は、日本の近代批評の確立者であり、批評文を文学の価値に高めた人と言われている。
小林は、戦前6回にわたり、中国を旅行している。
昭和14年(1939)には、当時の満州で、満蒙開拓青少年義勇隊の訓練所を見学している。
15歳の少年たちが、家族から引き離され集団で、どのように暮らしているか、そのことを書いた文章の一端はこんな内容である。


「夕食は迫っていた。白い地平線から吹いてくる寒風にさらされて、ひとかたまりのみすぼらしい家屋が並んでいるのを見た時、
僕は、千四百人の少年が、ここで冬を過すとはどういうことであるかを理解した。(中略)
僕が行ったのは十一月上旬であったが、もう零下二十二度と言われた。準備の整わないうちに冬は来てしまったのである。
棟上げだけ済ませた家が、むなしく並んでいるのが見られた。できあがった泥壁にわらぶきの宿舎の形こそ大きいが、建築の疎漏な点では、一般満人の農家にも劣るであろう。
はじめ少年の手で建てられた天地乾坤造りとかいう小屋は、夏が近づいてみると、湿地の上に建っていたことが判明した。(中略)
建物に入ると、白いお骨の箱が、粗末な台の上に乗っているのが眼についた。
僕らはお線香を上げ、合掌した。それはペエチカが燃えないのにいらだち、ガソリンをかけようとして、抱えたカンに引火し、焼死した少年の遺骨であった。(中略)僕は、この事件が、まことに象徴的な事件であることを直覚してしまったのである。
部屋の中央には、細長いペエチカが二つあって、いい音をして燃えているのだが、まだ二重窓も出来ぬ、風通しのいい部屋の氷を溶かすわけにはいかない。
やがて暗いランプが点り、食事になった。少量のごまめの煮付けのようなものに、菜っ葉の漬物がついていた。(中略)
(僕は少年たちに)話をすることを頼まれた。僕は辞退の言葉をむなしく捜した。僕が何を少年たちに話そうというのか。少年たちが、今どんな話を聞きたがっているか解りすぎるほど解っているのだ。
それは東京から物珍しげに出かけてきた、自分たちの生活には直接に何の関係もない男の講話などではない。
諸君の理想、諸君の任務、という言葉を、彼らは何度も聞かされたことだろう。
だが、今はそんなことは聞きたくはない。いつ防寒靴はそろうのか、いつ手袋は渡るのか、知りたいのはその種の事情だけだ。
その点では子どもはみな鋭敏なリアリストなのである。
僕は、少年たちの宿舎に案内された。暗いランプの光では、そこにギッシリ詰まった少年たちの顔を、はっきり見分けることが出来なかった。室内は本部の部屋より暗いように思われたが、煙がひどかった。
少年たちの眼が、自分に注がれているのを感じ、彼らが笑うような話がしたいと思って胸がふさがった。
僕は、元気で奮闘してもらいたいという意味のことを、努めて元気な声を出してしゃべった。そしていっぱい汗をかいた。」