石垣りん「子供」

えっ、思わず叫びそうになる話を詩人の伊藤信吉が書いていた。
石垣りんの詩「子供」の解説のなかで。
こんな文章である。


 「他人の手で殺された子供を、
その母親が三日三晩抱き温め、
三日三晩子守唄を歌いつづけ、
ついによみがえらせたという感動的な伝説が、
メキシコのどこかにある。
子供の生命や意識は柔軟である。
大人の生命や意識はなぜカチカチに固まってしまったか。
子供たちが育つことは、そのカチカチの世界に引きずりこまれることなのか。
このカチカチの世界を誰が柔らかくほぐし、
誰が生命のいとしさで充たしてくれるか。
 子供と大人との距離、それは年齢、肉体、意識の距離としてあるけれども、
生命のはるかなつながりにおいて距離ではない。
そのつながりは距離を滅する。
距離を滅ぼしたそこのところで、
ふたたび距離を思ってみる。
 はるかにして身近なもの、身近にしてはるかなもの。
石垣りんはここで生命の愛を語った。」


メキシコの伝説、伝説であるからには、事実なのかどうなのか分からない。
しかし、元の事実があって伝説が生まれるのだから、
あるいはそういうことがあったのかもしれない。
それほど母の愛は献身的で深い。
母の愛による奇跡であると同時に、
子供の命の柔軟さが奇跡を生んだ。


大人の頭の頑固さ、
カチカチの頭、
カチカチの観念、
そこから発するものが政治になったり、金もうけになったり、戦争になったりする。
そして柔軟な子どもに「カチカチ教育」がほどこされる。


石垣りんの「子供」という詩は、こういう詩である。



         子供

  子供。
  お前はいまちいさいのではない。
  私から遠い距離にある
  ということなのだ。


  目に近いお前の存在、
  けれど何というはるかな姿だろう。
  視野というものを
  もっと違った形で信じることが出来たならば
  ちいさくうつるお前の姿から
  私たちはもっとたくさんなことを
  読みとるに違いない。


  頭は骨のために堅いのではなく
  何か別のことでカチカチになってしまった。


  子供。
  お前と私の間に
  どんな淵があるか、
  どんな火が燃え上がろうとしているか、
  もし目に見ることができたら。


  私たちは今
  あまい顔をして
  オイデオイデなどするひまに
  も少しましなことを
  お前たちのためにしているに違いない。


  差しのべた私の手が
  長く長くどこまでも延びて
  抱きかかえるこのかなしみの重たさ。