伊東静雄「九月七日・月明」

我が子が病気になったとき、子どもが元気になることをひたすらに願う親の心は切ない。
むずかしい病気だと聞けば、日ごろは神仏に祈ることのない親であっても、
どこそこの神さんはごりやくがあると教えられるとお参りして祈願し、
百度を踏んででも、祈りを聞き届けてほしいと思う。
よい病院だと聞くとその病院の門をたたき、なんとかして診てほしいと懇願する。
それが親。


伊東静雄の長女まきが高熱を出した。
夜が更けていたけれど、町医者に往診を頼んた。
医者は自転車でやってくる。
昔、救急車のなかった時代、町医者は、その町の重要な救い手だった。
来てほしいと頼まれれば、町医者は夜中でも診察してくれた。


早く来てほしい。
早く来てほしい。
父は心配とあせる気持ちで待っている。

この詩は、昭和17年に発表された詩のひとつ。



         九月七日・月明   

  夜更けて医者を待つ
  吾子(あこ)の熱き額(ひたい)に
  手をやりて
  さて戸外の音に
  耳をかたむく
  ――耳傾くれば
  わが家は虫声の
  大き波 小さき波の
  中にあり
  ………
  たちまちに
  自転車の鈴(りん)の音
  遥かにきこゆ
  つと立ちいでし
  僻耳(ひがみみ)や
  草原は
  つゆしとどなる月ありて
  すず虫の
  ただひとしきり
  鈴をふる音
  ――わが待つものの 遅きかな



医者のやってくるベルの音が聞こえやしないかと、
親は耳を済まして待っている。
その耳に、虫の声が入ってきた。
そのころ、秋の虫は、庭でさかんに鳴き、こおろぎは家の土間にまで入ってきて鳴いていた。
波のように聞こえる虫の声。
あ、自転車の鈴が聞こえた。
医者だ。来てくれた。
急いで立って出て行ったら、聞き間違いだった。
草原には月の光が、おりている露に濡れたように降り注いでいて、
鈴虫が鈴をふるわせて鳴いている。
自転車の鈴だと思ったのは、鈴虫だった。
お医者さん、早く来てください、
待つ心は、早く早く、まだかまだかと、胸をゆさぶる。


幼子は無力な、無防備な存在。
父母は、子どもを護る。
なんとしてでも守ろうとする。
だから保護者。
その根源が崩壊した親が最近目立つ。
現代人は、このような詩を、読み味わう機会をもつことが要るように思う。