碌山美術館開館50周年


     碌山忌の記念コンサートに行ってきた


 美術館本館

 碌山忌の暖簾

 明治時代に作られたオルガンの演奏

 枕木で作られたグズベリーハウス

 三浦久さんのフォークソング演奏

 グズベリーハウスの室内から

 桂聡子さんのフルート演奏



22日は「碌山忌」で「碌山美術館開館50周年」になる。
穂高町碌山美術館へ行った。
初めてぼくがこの美術館に来たのは40年ほど昔のことだ。
JR大糸線穂高駅から歩いてすぐ、
屋根上に鐘楼を載せたチャペル風の小さな建物の魅力と、荻原碌山の生命感あふれる彫刻が心に強く残った。
碌山の親友、高村光太郎の作品もあった。
光太郎が激賞した「坑夫」や、「文覚」は圧倒的な迫力だった。


日本の近代彫刻の祖とも言われる荻原守衛(碌山)は、1879年に穂高村の農家に生まれた。
22歳のときに渡米して絵を学び、24歳でフランスへ渡り、ロダンに出会う。
碌山の彫刻家への道はこれで決まる。
日本に帰った碌山は、彫刻に専念した。
しかし彫刻制作に没頭したのはたったの2年余、30歳にして碌山は病に倒れた。
最後の作品が最高傑作となった「女」だった。
残した作品は15点、「もし死ぬのなら、桜の花の下で」の願いどおり、1910年、碌山は桜花散るなかで息をひきとったという。
それから48年後、1958年、地元や県下の小中学校の児童生徒や教師も建設にかかわり、全国30万人の寄付によって美術館は生まれた。
美術館の扉には、「この館は二十九万九千百余人の力で生まれたりき」と刻まれている。


今日は、新たに造られた「杜江館(もりえかん)」の開館日でもある。
「杜江館」には碌山の絵画が展示されている。
碌山逝ったときのように、桜の花が舞い、美術館の庭に花びらが散り敷いていた。
50年の時が刻んできた美術館のたたずまいに、心が洗われる思いがする。
懐かしい彫刻、「坑夫」「文覚」と再会もできた。


午後2時から、美術館の庭園で記念コンサートが開かれた。
「早春賦愛唱会」の合唱で始まり、
明治時代に小学校で使われ、その後美術館に寄贈されたという古いオルガンの演奏も行なわれた。
これがまた何とも言えない、すべて木作りの重厚なもので、
音を出すにはペダルを忙しく踏み続けなくてはいけないという年代物だった。
だが、碌山没後98年、碌山を偲ぶこのコンサートにぴったりだ。
折井清純さんのマンドリンによる「早春賦変奏曲」、
桂聡子さんのフルート演奏「朧月夜によるポエム」「さくら変奏曲」、
そして三浦久さんのギターによるフォークソング「碌山」「次郎」「千の風」。
屋根を石で葺いた枕木を使ったログハウス「グズベリーハウス」と、芽吹くケヤキの木々をバックに、
小鳥の声が木々の梢から降ってきて合奏する、
すべてが美しい。
たまにすぐ横をJRの電車が通り過ぎていくのも、
コンサートに調和している。
シンガーソングライター・三浦久さんが作詞作曲した碌山の一生と、碌山に大きな影響を与えた同郷の師、井口喜源治の長編の詩に曲をつけた「次郎」、
そして
かの三浦さんオリジナル訳に作曲した「千の風」、
これらは特に心に迫るものがあった。
そのCDがグズベリーハウスで売られていたから買い求め、三浦さんにサインしてもらって、少し話をすることができた。
三浦さんは、宗教学、仏教学を修めてフォーク歌手となった異色の人で、一時歌手生活をやめていたが、
中国の天安門事件を報じる一枚の映像、戦車の前にたちはだかり戦車を止めた一人の中国人青年の姿、
世界を駆け巡ったこの映像が転機になった。
「自分はこんなことをしていていいのか」
歌おう、再び三浦さんは歌い始めたのだという。
三浦さんの作曲した「次郎」は長い曲で、その詩の第一連を歌い始めたとき、
感動が背筋を走った。

「水豊かなる万水(よろずい)の
 ほとりにわれは生まれけり
 河辺の柳うちけぶり
 すみれの匂う春の朝
 雲雀の声に夢さめて
 雀の巣をばあさりつつ
 水鶏(くいな)の雛のあとを追い
 世のさま知らで過ごしけり」