『一身独立して一国独立す』

   

            
       加藤周一「高原好日  20世紀の思い出から」



加藤周一が、「高原好日  20世紀の思い出から」という本を出している。(信濃毎日新聞
加藤周一は、医者であったが、評論家・作家として活動してきた。
眼光紙背に徹す、それは彼の論においても、まなざしや風貌においても然り。
ぼくが、中国・武漢大学で院生に使った本は加藤周一の「日本文化史序説」3巻だった。


「昔少年の頃から私は信州浅間山麓の追分村で夏を過ごした。
そして多くの人々に出会い、彼らとの交わりを愉しんだ。」


前口上にこう書いている加藤の交わった人々というのが、さすがにすごいものである。
加藤周一が始めて信濃追分の油屋に泊まったのは1936年、軍事クーデター「二・ニ六事件」直後の、
大規模な中国侵略戦争を開始する前年だった。


「東京には政府の宣伝と御用文士、学者のうるさい声が溢れていた。しかし、夏の高原には鳴き交わす郭公の声と共に友人たちの静かな理性のつぶやきがあった。もちろんそれは無力なつぶやきにすぎなかったろう。」
「私はあらゆる狂信主義者の大声を好まない。30年代の後半の私には、精神衛生上、たとえ短い間でも東京から脱出する必要があった。その必要は避暑ではない。」
加藤は、東京では医学に専心し、信州の山小屋では文芸に熱中して、
戦時の日本にあって、ロマン・ロラン反戦論、トーマス・マンナチス弾劾の文を読み、
レーニン帝国主義論を読んでいた。
浅間の火山灰地、雑木林の小径、
加藤にとって故郷は、感覚的、知的な空間であり、生涯立ち返ることをやめなかった地点である。
「高原好日  20世紀の思い出から」に掲載されている人々は、
堀辰雄立原道造、尾崎行輝、片山敏彦、中野重治福永武彦中村真一郎野上弥生子ほか、総勢70人。
その一人一人について、出会いから、人物、業績などを印象的につづっている。


いずれの人についても興味深く、魅力的に書かれているなかで、ここに記しておきたい記述がある。
ひとつは、朝吹登水子について書いた文章で、
朝吹登水子は、フランスと日本との間を往来して、二つの文化の共存の中で生き、
フランス文学を翻訳し、自伝的小説を書き、多数のエッセイを発表した。
サルトルボーヴォワール朝吹登水子の親しい友だちであった。
加藤はこう書いている。


「和して同ぜず。登水子さんは付和雷同して自らの意見を変えることがない。故にその会話はさわやかである。
その意見を問えば、
『私はこう考える』というか、『その問題は私にはわからない』というか、どちらかであって、
決してかのTVの『ニュース』にあらわれる『街の声』のように
『みんなそう考えているんじゃないですか』とはいわない。
かつて福沢諭吉は、『一身独立して一国独立す』と言った。
一身独立するためには、みんながどう考えているかではなくて、
私はこう考えているということがなければならない。
精神の自由がなければ、一身は独立しない。
一身が独立しなければ、現に一国は独立しない。
水子さんはみずから所属する集団から自由であった。
日本からも、フランスからも。
また家族的背景が強制した日本の上流階級からも。」


もうひとつは、医師・赤松新について書いた章。
大日本帝国政府は、戦時中左翼を弾圧した。
一部の社会主義者は警察に殺され、一部は偽装転向し、ある人は大陸に逃れ、
地方の山村に身を潜めたものもいる。
戦争末期、米軍の本土空襲が激しくなるにつれ、
都会から田舎に疎開が始まり、加藤の大学の研究室も東京から信州上田の病院と結核療養所疎開した。
療養所の院長が赤松新博士で、加藤は親しくなった赤松院長とよく話し合った。
赤松院長の理知的な透徹した見方、考え方から、加藤は赤松を「かくれキリシタン」になぞらえて、「かくれ左翼」ではなかったかと思う。


「赤松院長はいつもある距離をおいて戦争の成り行きを語り、常に冷静で、時に皮肉を交え、
あらかじめ見透かしていた愚かな戦争の末期が、
いつどういう形で来るかをここで待っているほかはない、とつぶやいていた。」


「私は軍国日本が崩壊した夏に、千ヶ滝で確かな『かくれ左翼』の俳優にも会ったことがある。
『この国もついに民主化されるでしょう』と私が言うと、彼は言下に
『いや、アメリカ資本主義は征服したもう一つの資本主義を再建するだろう。弾圧が来るかもしれない』と応じた。
愕然とした私は、別れた後もその一言が忘れられず、それにこだわり、その意味を考えつづけていた。
そのときであったろう、ふと休んだ中山道沿いの木陰のベンチに、誰かがラテン語で刻んだ『地には平和を』の一句を見つけたのは。
いうまでもなくその前に『天には神の栄光を』と唱える祈りの文句である。
疎開者か、旅人か、誰かが戦時中に、『一億玉砕』を叫ぶ大合唱のなかで、
ひそかに憲兵や警察にはわからない言葉で、それを彫ったのである。」