危険なメディアの感情表現




記事の見出しに、
ホワイトハウスの激高」
とある。
「怒るアメリカ」
というのもあった。
このような感情表現がしばしばある。
最近の週刊誌と新聞にあった見出し。


「虚ろな鳩山由紀夫 信念のカケラがない」
「嫌われる小沢一郎


今の沖縄の米軍基地問題、政治情勢に対して意見はいろいろあろうが、
感情的、感覚的、主観的な表現が新聞、週刊誌の見出しに実に多い。
「虚ろ」に感じたのは、記事を書いたものの見た感じ、主観そのものである。
虚ろな心理状態にあったかもしれないし、そうでなく考えに考えていたのかもしれない。
「信念のカケラもない」と感じた人は、どれほど人間の心の内、思考の中身を、くみ取る力をお持ちなのか。
「嫌われる」というのは、記者が小沢を嫌っているのだろうが、「好き、嫌い」の感情は、表層的な感情である。
「あの子は好き、あの子は嫌い」、「あの人は好き、あの人は嫌い」、この感情に縛られると、判断を誤る。
事実を報道するジャーナリズムにとって最も避けなければならないことである。


人の眼はこのような感情表現に引きつけられ、敏感に反応する。
だから、読ませたい、売りたいメディアは、この手の過激見出しを繰り返す。
扇動の意図が奥に潜んでいる場合は過激になる。
読んだ人は、感情を刺激され、事実のとらえ方、考え方に何らかの影響を受ける。
こうして世論がつくられていくとしたら危険極まりない。


アメリカは日本の政府に対して怒っているぞ」
という記事は、
「日本政府はアメリカを怒らせているぞ」
ということであり、
「日本政府は間違っているぞ」
ということであり、
「怒らせないようにしろ」
ということであり、
突き詰めれば、
アメリカに従え」
ということになる。


同盟関係では、相手のご機嫌が気になるものだ。
相手をご機嫌斜めにしたくない。
蜜月関係を演じたい。


「怒り」は、「威嚇」をはらむ。
両者間に、強い弱いの力関係、上下の関係、支配と従属の関係がひそんでいる場合は特に、
相手が思うようにならないときに「怒り」が出てくる。
怒っているとしたら、威嚇をはらんでいないか。
誰が怒っているのか、誰が威嚇しているのか。
アメリカの強大な軍需産業か、
アメリカの軍関係なのか、
アメリカの政府なのか、
アメリカの国民なのか、
誰が?
誰が威嚇によって日米関係を破綻させようとしているのか。


日本政府はもっと率直な直接対話をすべきだと思う。
対話で関係が崩れるようなことはない。
戦後の沖縄の置かれてきた状況、
沖縄県民の心をもっと強く伝えるべきだ。


「一身独立して 一国独立す」(諭吉)