本当のこと


         本当のことを言う


8日の「声欄」にこんな記事が載っていた。(朝日新聞
投書の主は、青森の75歳の人だった。


「いきなり、『この戦争は勝つと思うか』と担任に問われた。
私はとっさに、『はい、勝ちます』と答えた。
30代半ばの担任は、『どうして勝つと思うのか』と、重ねて問われた。
中学校の入試に備えて勉強に励んでいた私は、自信をもって、
『なぜなら、この戦争は聖戦だからであります』と、
胸張って返事した。
担任はじっと私を見つめてから、
『何が聖戦だ。日本の軍隊が中国大陸で何をしたか、お前は知っていないだろう』
と言われた。
私は度肝を抜かれた。」


そうして先生はこう語ったという。
「この戦争は必ず負ける。
中学校へ行けば、前線で弾よけにされるだけだ。
工業学校へ入って、何か技術を持てば後方勤務になると思う。
そのうち戦争は終わる。
生き残れば新しい国のためにお前らの進む道が開けることになる」
と。


その先生は、その後召集を受け戦地に行かれたが、戦後無事に帰還されたという。
こういう教師がいたのだ。命がけの発言である。
投書の主もその後教師になった。


『昭和万葉集 巻六』(講談社)に、
戦時中に作られた歌が収録されている。


  たたかひはいかにならめと問ふ父に勝てじと答へば父いかりける
                        (大和勇三)

戦争はどうなるだろうと父は尋ねた。勝てないだろうと答えると父は怒った。
負け戦であると感じていても、「勝つ」と信じ、士気を鼓舞しなければならなかったその時代、
戦争批判は口が裂けても言えなかった時代だった。


  国民の無智なるひとりわれもまたへたな踊りををどらされたり
                        (石川武美)
 
「無智」であり、「無知」でもあった。事実を知ることから遠ざけられ、状況から判断して知恵を発揮することもなかなかできなかった。


子を戦地に送った母の歌がある。


  地に伏してただに祈らむ生還を母のこころとくみ給へかし
                            (平林英子)

生きて帰ってきてください、それが母の本心だと汲み取ってください。
その本心も抑えねばならなかった。


山田宗睦が同『昭和万葉集 巻六』(講談社)に、「ある哲学学徒の戦中体験」を書いている。
山田は京都帝国大学の学生だった。
昭和18年、学徒出陣が始まり、昭和19年2月に、繰上げの卒業のお別れ会があった。
教授たちがはなむけの言葉を学生たちに送る。


「学生を兵役におくるにあたって、高島善哉教授は、『生きてかえれ』と言った。務台理作は、『不惜身命、但惜身命』と書いた。
‥‥このころ言葉の含意、かくれた意味を、巧みに通じあわす能力がきたえられた。
戦後、『奴隷の言葉』と言われもしたが、言葉のニュアンスを読みわけ、ききわける、わざのようなものができた。」


山田は、昭和16年の真珠湾攻撃によってアメリカとの戦争が始まったときのことも、書いている。
彼は、旧制水戸高校の学生だった。
その日、一時間目は国文学の授業だった。
教授の中村雲耕が教室に入ってきて、出欠をとる間も、
興奮した学生たちは、開戦のニュースについてがやがやと話していた。
出欠をとりおえた中村は、正面を向き、
「こういう時こそ、平素の教養がものをいう」
とだけ言って、戦争の話はまったくなく、なにごともなかったかのように、
万葉集の評釈を始めた。
学生たちは、水を打ったように静まり返った。