『子どもの遊び』研究①


    一、子どもの存在証明


人通りの少ない街中、子どもの甲高い声が聞こえてくる。
子どもの声は、かなり距離が離れていてもよく響く。
公園に近づくと、珍しく小学生たちが遊んでいた。夕方5時近かった。
彼らは大きな声を発しながら遊んでいたが、有線放送の「夕焼け小焼け」の曲が鳴りだすと、
さっさと自転車に乗って帰っていった。
公園や道端で、子どもの姿を見ることはめったになくなったこの頃、
たまに出会う、遊んでいる子どもの空間には、子どもならではの生気が放射している。
子どもの元気な声を聞くと、大人の心も元気になる。


子どもの声は、なぜ甲高いのだろう。
身体の構造がそうなっているというのが、医学的な答えだろうが、
子どもが群れて遊びだすと、声の調子が高くなる。
遊びに夢中になるとテンションが高まり、全身から声がほとばしるからだろう。
遊んでいる子どもたちは、全身全霊かたむけて生きている。
自分の存在をアピールする、力いっぱい主張する。
声は次第に大きく高くなる。


車社会になるまでは、道路が子どもの遊び場だった。
どこに子どもがいるか、親はこの声によって、子どもの姿が見えなくても、その存在がわかった。
庭で、道路で、近所の子どもたちが遊んでいる。
年上の子も、年下の子も、仲良いいつもの遊び仲間、
そのグループに入っている限り、心配はない。
子どもの声を聞きながら、親は家の中で仕事ができた。
遊びほうけ、遊び疲れたら、子どもたちはお腹をすかせて、家に帰ってくる。
家の手伝いのある場合以外は、
町の中でも、村でも、これが、かつての子どもの日常だった。


詩人、百田宗治(1893〜1955)につぎのような詩がある。


遠いところで子供達が歌ってゐる、
道路を越して 野の向うに
その声は金属が何かの尖端が触れ合ってゐるやうだ。


一団となって子供達が騒いでゐるのだ、
戦さごっこか何かをしてゐるのだ、
追ったり、追はれたり
組んだりほぐれたりして
青い草の上でふざけ合ってゐるのだ。


おお晴れわたった空に呼応して、
子供達の声が私の窓にきこえてくる、
遠い世界のもののやうにひびいてくる、
私の魂はそれに相応ずる、
そのひびきの一つ一つをきく、
はるかに支持し合ひ
保ち合ふ人生がきこえる、
おお私はその声をきいてゐる。


百田宗治は、1932年(昭和7年)児童作文の指導誌「工程」に拠り、
全国の小学校教師と連絡をとって綴り方運動を展開し、それは生涯続いた。
子どもたちの声は金属が何かの尖端が触れ合っているようだ、と百田は表現する。
「子供達の声が私の窓にきこえてくる、
遠い世界のもののやうにひびいてくる、
私の魂はそれに相応ずる、
そのひびきの一つ一つをきく」
子どもたちが遊びに熱中している声は、大人の日常会話の次元とは完全に無縁の、
異次元のものだ。
平安時代末の『梁塵秘抄』掲載の有名な歌。
『遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ』
育ちゆくものの本性、それを愛でる大人の姿、
生命体共通のものだと思う。
志賀直哉の短篇に、『かくれんぼ』という作品がある。
外でかくれんぼしている子どもたちの様子を、その声をとおして想像している。
「もういいかい」と「もういいかあ」、
言い方の違う、日本の子どもと、外国籍の子どものかくれんぼ。
街の子どもたちの遊びの日常。


伊東静雄(1906〜1954)の詩「夕映」。


わが窓にとどく夕映えは
村の十字路とそのほとりの
小さい石の祠(ほこら)の上に一際(ひときわ)かがやく
そしてこのひとときを其処にむれる
幼い者らと
白いどくだみの花が
明るいひかりの中にある
首のとれたあの石像とほとんど同じ背丈の子らの群
けふもかれらの或る者は
地蔵の足許に野の花をならべ
或る者は形ばかりに刻まれたその肩や手を
つついたり擦(こす)ったりして遊んでゐるのだ
めいめい家族の目から放たれて
あそこに行はれる日々のかはいい祝祭
そしてわたしもまた
夕毎にやっと活計からのがれて
この窓べに文字をつづる
ねがはくはこのわが行ひも
ああせめてはあのやうな小さい祝祭であれよ
たといそれが痛みからのものであっても
また悔いと実りのない憧れからの
たったひとりのものであったとしても


伊東静雄は、農家の廃屋に住んだ。
夕焼けに染まる空、近所の村童が、首の取れたお地蔵様の石像のところに集まり、
野の花を供えたり、お地蔵様に触ったりして遊んでいる。
家族から放たれた、子どもたちだけの世界。
静雄は、それを「日々のかわいい祝祭」と表現し、
自分の詩作もまたささやかな祝祭であれよと考える。