宮沢賢治「風の又三郎」とミヒャエル・エンデ「モモ」


 賢治作「注文の多い料理店」の序に書いている。
 「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほった風を食べ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはってゐるのをたびたび見ました。
 わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。」
 「風の又三郎」のなかの子どもたちは、この序のような世界に生きていた。
 だが、現代の子どもたちはこの、自然と人との深いかかわりを持つ世界から遠くはなれてしまった。「風の又三郎」の風景は、失われた「子どもたちの原郷」としての風景である。風の又三郎は、現代日本の社会から風のように去っていった。
 ミヒャエル・エンデの小説「モモ」、そこでは、子どもたちはこう描かれている。
 「モモは犬や猫にも、コオロギやヒキガエルにも、いやそればかりか雨や木々のざわめく風にまで、耳をかたむけました。すると、どんなものでも、それぞれのことばでモモに話しかけてくるのです。」
 「モモがここにいるようになってからというもの、みんなはいままでになく、たのしく遊べるようになったのです。たいくつするなんてことは、ぜんぜんなくなりました。モモがすてきな遊びをおしえてくれたからではありません。モモがただいるだけ、みんなといっしょに遊ぶだけです。ところがそれだけで――どうしてなのかだれにもわかりませんが――子どもたちの頭にすてきな遊びがひとりでにうかんでくるのです。毎日みんなは新しい遊びを、きのうよりもいっそうすてきな遊びを考え出しました。」
 子どもらしい子どもモモ。そこへ「灰色の男たち」が現れる。「灰色の男たち」は、子どもたちの世界に入ってきて、子どもたちから「時間」を奪っていった。
 奪われていく「時間」とはなんだろう。それは、人が人として生きることであり、人間らしく生きていく命である。「時間」を奪われた子どもたちは管理され、遊びを奪われ、偽りの価値観による生き方を押し付けられた。
 「灰色の男たち」とは誰だろう。「灰色の男たち」とは、現代の文明そのものである。
 子どもらしい子どもは、自然の持つ大きな力のなかで育つ。「風の又三郎」のなかの子どもたちは、川遊び、けんか、どろんこ遊び、野ぶどうとり、馬遊びなどをして、自然のなかで命を輝かせた。
 「やなぎの枝を折って、青い皮をくるくるはいで、むちをこしらえて、ひゅうひゅうふる。空が光ってキインキインと鳴っています。」
 草も木の枝も、遊びの友。それらは自然の声を聞かせてくれる。子どもたちはその音を楽の音にした。
 子どもたちは、子ども同士のつながりのなかで育つ。遊びでつながり、遊びで学び、遊びを創作し、遊びで力をあわせ、遊びで友情を深め、遊びで技をみがき、よりよきものへ切磋琢磨した。――

 20数年前、「風の又三郎」が映画化されたとき、こんな感想を書いていた。