円空さん


        中観音堂


観音堂の前に砂利を敷いた広場があり、
その傍らに、現代の木彫りの円空仏が十数体並んでいた。
大きいのは等身大ぐらいもある。
円空さんを偲んで、
平成の人々が丸太を刻んだものだった。
今も、円空仏を彫る人がたくさんいる。
発起は、趣味や自分のためであったとしても、
彫るうちに彫る目的が変わってくる。
丸太の中から仏が現れるに及んで、
目的が自分だけのためではなくなってくる。
深く刻まれ、風雨にさらされた木肌の、
並んでいる平成の円空仏が語りかけてくる。


もう時刻は午後五時を回っていた。
夕日が西の山に沈んで、山際が赤く染まっている。
お堂の前につるされた鐘が、からんからんと鳴ったから、
見ると腰の深く曲がったおばあさんが、
お堂の扉を閉めて、階段を降りかけていた。
おばあさんは、ぼくの姿を認めて足を止められた。


拝まれますか。
はい、でも、もう帰られるのでしょう?
いいですよ、せっかく来られたのですから、どちらから?
長野からです。
まあ、遠くから、ようお参りしてくださんした。


おばあさんは、きびすを返して、扉の鍵を開け、
お堂の中に明かりを点けてくださった。
どうぞ、お入りなさって。


入ると、目の前に、檜を彫った円空仏が、17体まつられている。
中央に本尊、2メートルを超える十一面観音。
あの慈愛の微笑を浮かべて。
円空初期の、なめらかで細やかな彫り。
その左右に並ぶ優しい木肌の像たち。
たくましい左腕を前に出した形相すさまじい不動明王
聖徳太子像、鬼子母神像、阿弥陀如来像、金剛童子像……。


江戸時代、1632年、円空さんは、この地で生れた。
父親のいない出生だと言い伝えられ、
19歳の時に、洪水で母を亡くした。
村は、長良川木曽川に挟まれたところ、
しばしば洪水が村々を襲った。


23歳から円空さんは、修行しながら、全国を行脚し、
64歳で世を去るまでに、12万体の神仏を彫った。
鉈一本で、丸太や木っ端に。
人々の苦しみを癒し、人々を救うために。
1665年には、北海道にも渡り、多数の仏像を彫った。


慈愛の顔を、一本の鉈で彫り込む毎日、
単純計算しても、
40年間で12万体ということは、
1年で3000体を彫ったことになる。
毎日、8体近くも彫ったということか。


乞食僧の旅を続けた円空さん。
現代人は、あなたを日本のロダンだとか言う。
円空仏の微笑を、モナリザにたとえる。
だが、
あなたの願いは、苦難の衆生を救うことだった。


おばあさんは、曲がった腰で、本堂横の資料館も開けてくださった。
おばあさん、その腰はいつからですか。
3年ほど前からひどくなってな、もう伸ばすとしんどくてな、
おばあさんは、腰をまっすぐ伸ばして見せた。


ありがとございました。
よう、お参りしてくんさいました。


もう空を行く渡り鳥の姿が黒々としている。
6時を回ると風が身に染む。
いちだんと秋が深まってきた。
夕暮れは、人恋しい。
田んぼの中を自転車で宿舎に向かった。