武漢


         若者たち 


コメントをくれたのは、やっぱり雪ちゃんでした。
以前にくれたチャンさんも、ともに武漢大学の教え子、
あのときの、ひたむきな若い魂との交流は、天からの贈り物のように思え、
刻まれた感動は、
時を経ても、美しい調べを奏でます。


ブログの、雪ちゃんのコメントに書かれていたアドレスは、
迷惑を受けないように削除しました。
残念なことに、その後送ってくれたメールは、
二人とも文字化けしていて、読めませんでした。


雪ちゃんは、一時音楽への夢を捨てがたく、
大学卒業後、模索の道を歩みましたが、
湧き上がってきた日本語の魅力に押されて、
今は大学で日本語を教える先生です。


広州の日系企業に職を得たチャンさんは、
巨大ビルのつくりだす影に、その街を作ってきた地方の労働者の血と汗を見ました。
雪ちゃんも、汗にまみれ泥にまみれて働く人々に、
心を動かされる人でした。


今も武漢に住んでいるトゥ君から、
私の本「架け橋をつくる日本語 中国・武漢大学の学生たち」を読みたいと、
メールがとどき、
本を送ったのは、つい二ヶ月ほど前でした。


先日、長崎の平和コンサートで、
20年歌い続けてきた〈さだまさし〉が、
流れ落ちる汗をぬぐおうともせず、何万の涙の聴衆に歌った歌の中に、
「フレディ」という名前の入った歌がありました。
ぼくは、その歌のいきさつも内容もよく知りませんが、
歌の終わりに、「漢口」という武漢の地名が出てきました。
漢口は、あの戦争の時代、日本軍の戦略拠点でした。
さだまさしの歌は、その戦争にまつわるもののようでした。


雪ちゃん、チャンさん、もう一人男子学生と、ぼくたち夫婦、
五人は、漢口の歩行者天国を歩き、長江の渡し船に乗って川を渡ったことがありました。
さだまさしの歌に、思いがけず漢口がよみがえったのでした。


ぼくは、今、中国の地方からやってきた技術研修の若者たちに、
日本語を教える仕事にたずさわっていますが、
彼らの澄んだ瞳がかがやき、
笑顔があふれてくるのを、うれしく思っています。
彼らの中に、武漢からやってきた青年もいて、
そのことを知ると、
なんだか親しい人に会ったような感じがしています。