きびのマントウ


        きびのマントウ


信州には、「満州」へ渡った人が多い。
有賀さんもその一人だった。
昭和19年6月、有賀さんは国民学校高等科を卒業して、
中国へ渡り、満蒙開拓青少年義勇軍に入った。
満州」へ行けば広い土地が手に入る、夢の大地だという勧誘にのせられて。
14歳、いまなら中学生の年だった。


少年たちは、耕地の手入れ、牛馬の世話などしながら厳しい冬を越した
翌20年夏、ソ連が参戦し「満州」に侵攻してきた。
関東軍に置き去りにされた避難民は逃避行を開始する。
終戦直前の8月13日だった。
筆舌に尽くしがたい悲惨がおそいかかる。
地獄だった。
連れて行けなくなった我が子を置き去りにする親、
我が子を殺す親、
自爆する兵隊、
飢えと疲労で極限の状態におちいる。
銃弾が顔をかすめても死への恐怖は感じなくなった。


8月15日、終戦
9月、有賀さんは捕虜収容所に収容され、
その後、別の難民収容所へ移された。
難民収容所では、町で仕事を探して働く。
零下40℃の冬は仕事もなく、ひたすら飢えと寒さ、病気にたえる生活だった。
一人また一人と、仲間が死んでいった。
有賀さんは、自分の名前も思い出せないほど衰弱した。


ある日、一人の中国の少年が、
座り込んでいる有賀さんの前に、きびのマントウをそっと並べて立ち去っていった。
有賀さんはひさしぶりの食べ物を仲間と分け合い、
涙を流しながら食べた。
一緒に食べた仲間の一人は、その晩、
静かに息を引き取った。
翌朝、少年がふたたびあらわれ、
有賀さんを自宅の床屋へ連れて行った。
床屋の主人は、ストーブの番をするように手招きし、
奥さんはお米のかゆをつくって食べさせてくれた。
その家では、みんな粟のかゆを食べていたにもかかわらず。


有賀さんは、平成11年、
命の恩人、床屋の主の消息をつかんだ。
主人は既に亡くなっていたが、娘さんに会うことができた。
マントウを持ってきてくれた少年はどうしているのだろう。
有賀さんは、少年の物語を本にまとめようとしている。


有賀さんは76歳、
今もたびたび中国を訪れ、日中友好の仕事に人生をかけておられる。
この地では、一つの村、町にも、日中友好協会が存在する。
有賀さんは一つの町の協会の理事長をなさっておられる。
市の広報誌に載ったこの話を読み、有賀さんに連絡を取った。
今度ゆっくり会ってお話しましょう、
有賀さんはぼくの電話をことのほか喜んでくださった。