能力給と教育

       能力給と教育


教員への能力給が、東京に続いて大阪でも導入されようとしている。
すでに教職員を五段階に査定しているが、能力給は一年先。
実践を評価して、給料に差をつけようというのだ。


ひどい手抜き指導や暴力的な指導の実態をぼくも見てきた。
そしてまた、粉骨砕身、情熱を燃やして教育をつくってきた教師もたくさん知っている。
たしかにその格差はあまりに大きく不平等だ。


だが、能力給を導入したら、困難な状況にある教育が、蘇生・活性化するのだろうか。
困難な社会や家庭の実態のなかで育つ子どもたちを引き受ける学校が、能力給によって、どうよくなるのだろう。
管理職は、教師や教育を正当に評価することができる、と思っているのだろうか。
教師を育て、教師集団をまとめ、教育を創っていく力量において、
怠慢で無能に見えた管理職の例もぼくは知っている。


教師は教職の資格をとり、採用テストに合格すれば教師になれる。
教育実践の修業らしいこともないままに、いきなり子どもの前に立つ。
だから、赴任した学校が、教師になっていくための一つのフィールドになる。


だが今や、疲弊とあきらめにうめく教師たちが学校現場にたくさんいる。
困難な中でも力を奮い起こし、教育をつくろうとするのに必要なのは、
連帯する仲間だ。希望をもって創造する仲間だ。
それをどうしたらつくれるか、そこにしか教育再生の道はない。
仲間とともに協力し、研究し、創造していく実践は、分断からは生まれない。


奈良の法隆寺の宮大工だった故西岡常一棟梁は、
内弟子に一枚の鉋屑を渡し、それと同じものが出るまで刃物を研ぎ続ける修業をさせた。
刃物を使う職人は、「研ぎ十年」という修業をした。
プロになるには、厳しい練磨、修行、研鑽がいる。
西岡常一棟梁が内弟子の小川三夫に伝えた口伝がある。
「百論ひとつにまとめる器量なき者は謹みて匠長の座を去るべし」
大工、左官屋、石屋、屋根屋、たくさんの人たちの力が組み合わさって五重塔や金堂ができあがる。
百の工人には百の思いがあり、それをまとめていかなければ建物は建たない。
匠長の器量がそれをなす。(注)



「私は、子どもから出てきた片言だのつぶやきを、大事な手がかりにして、授業を組織したいのです。
子どもの口からこぼれてくる言葉、つぶやき、ひとりごとみたいなものが聞きとれないとだめなのです。
子どもの気持のなかにゆらいでいる、まださだかに形をとっていないものが、教師に見えてくることが、授業の肉づけになるのです。
授業のなかの子どもの活動をいろいろの枠でしめあげてしまえば、
この大事な手がかりが失われてしまいます。」(『授業の成立』一莖書房)
1970年代、全国二百数十箇所の学校で「人間について」などの授業を実践した、哲学者であり教育者でもあった故林竹二の言葉である。
枠でしばられていては育ちの道に立つことはできない。


「教師は思想を持ち、そこから出た教育理論と教育技術とを持った芸術家であり、
教育の仕事は芸術的な作業であり、子どもは、その結果の作品であると考えている。」
と述べたのは、群馬の斎藤喜博だった。
斎藤喜博が小学校の校長職にあったとき、
「各教室を廻って行くといろいろの匂いがする。
よい授業をしているときは、それが廊下まで匂ってくることがある。
そういうときは引き込まれるように中へ入ってしまうし、入るとおもしろくてその授業の中へ入れられてしまい、外へ出ることができなくなってしまう。
さっぱりおもしろくなくてすぐ外へ出たくなるような教室もある。
私はそれらの一つ一つを頭に入れて来ては、先生たちと火鉢のはたで話し合った。
そしてそれをみんなの問題にした。
また一人一人が意識しないで何げなくやっているすばらしい仕事の意義づけもした。」(『学校づくりの記』国土社)
と書いている。実際に喜博は実践によってそれを示した。


教師になるには、現場で日々子どもと向き合い、実践のなかで切磋琢磨していくしかない。
学校のなかに、どれだけ共同の学びと創造的実践の場をつくっていけるか、
互いに啓発しあう自発的研究と実践を行えるか。


職員会議で言いたいことも言わず、ただ管理職に同調し、
意識的、無意識的に評価を気にし、
同僚と比べて給料の少ないのに失望し、不満を抱き、
うまくいかない授業に無力感をいだき、卑下し、精根尽き果て、
「負け組み」になったと思って挫折していく、
そんなシナリオにしてはならない。


歴史の中で、日本の教育はどのように動いてきたか。
政策遂行のためには教師を統制していく必要があった。
そうして流れがつくられた。
勤務評定、管理職手当て、主任手当て、五段階査定、能力給、‥‥
管理職に、正しく教師を評価する力量がなくても、査定に問題があっても、
統制ができればそれで一定の効果がある、と。
歴史から浮かび上がってくるものがある。
権力を持つものが、人事と金を手段にするとき、たぶん教育はもっとぼろぼろになっていくだろう。


       (注)・参考『手業に学べ』塩野米松 小学館