②  下町の暮らし


 ぼくの住んでいた宿舎は、日本のかつての6階建て公営住宅に似ていて、その3階でした。ずいぶんくたびれた建物で、一階部分のひさしの上に、二階の人が勝手にベランダを作り、植木鉢を置いたり、洗濯場をつくったりしています。
 ぼくの部屋の窓から、隣の住宅に住む人たちの暮らしがよく見えます。小学生の女の子が、ベランダの上で、歌手の真似をして歌を歌っていたこともありました。
 からっと晴れた日には、どの家も一斉に布団干しをします。お母ちゃんたちが洗濯物を干します。暑い夏の日は、家の中でお父ちゃんが裸で過ごしています。小学生の女の子が、お母ちゃんに叱られていたことがありました。女の子は頑固に口ごたえしているらしい。お母ちゃんはお父ちゃんにバトンタッチ、お父ちゃんは、えらい剣幕で腕を振り振り叱りつけています。
 ぼくの食事はほとんど自炊でした。住宅の前の道路向かいに、スーパーがあり、そのなかにパン屋、肉屋、野菜屋、豆腐屋、卵屋、果物屋などがあります。食材はほとんどそこで買いました。
 十分歩けば巨大な市場があり、そこは早朝から押すな押すなの賑わいで、魚から乾物、雑貨、衣服、電気製品なんでもあり、石臼で豆の粉をひいている豆腐屋もあります。トラックの荷台に、リンゴを積んでき た農夫、ハミ瓜を満載してきた農夫たちが、トラックを並べて売っています。西瓜、桃、ナシ、それはそれはものすごい迫力です。
 ぼくは中国人スタッフのみなさんを、ぼくの夕食に二回招待しました。一回は湯豆腐、もう一回はカレーライスをメインにしました。みなさん、おいしいと喜んでくれました。
 青島では、どこでも青島ビールの生が飲めます。それ用のポリ袋があり、そこにビールを入れてもらって家に持ち帰る人の姿をよく見かけます。その日作られた生ビールが最高においしいです。
 ビルの広場の端に、新聞売りのおじさんが店を出していました。小屋の前に台を据え、数種類の新聞を置いています。とても気のいいおじさんで、いくつかの椅子と床几をが売り場の横に置いてあり、話をしたい人が来ると、おじさんはそれを差し出します。人はそこに座っておじさんと話をするのです。
 ぼくの部屋の上には研修生がぎっしり狭い部屋の2段ベッドに住んでいましたが、彼らも、おじさんの床几に座って、よく話をしていました。女の子が座っている日もありましたし、中年のおじさんが話していることもありました。見ていると、みんな何か相談事のような感じなのです。聞いてほしいことがあると、おじさんのところに来て、お話をしていく、そうして何かアドバイスをしてもらって、笑顔で去っていきます。
 どんな人に対しても、おじさんは、その人と向き合って、真剣に話を聴き、意見を言って、笑顔で送り出していました。
 あるとき、住宅に住んでいる技工学校の女子生徒と、彼女とつきあっていたらしい男の子が、けんかになりました。男の子はひどく腹を立て、女の子につっかかっていきます。それを見たおじさんは、店をほったらかして男の子に近づいていき、
「女の子に対して何をするか」、
といつもにない厳しい表情で言い聞かせています。けんかは、それで収まりました。
 おじさんは、毎日朝6時に店を出し、夕方まで一日中そこにいて、人々を眺めて暮らしています。
 朝、学校へ出かけるとき、夕方買い物から帰ってきたとき、おじさんは、いつも愛敬のあるしぐさで、右手を上げて挨拶してくれましたが、ぼくが青島を去るときは、悲しそうな顔で手を振ってくれました。
 前の店の野菜売りのお姉ちゃんとも親しくなりました。チンゲンサイやタマネギを選んでいると、そっと横に来てポリ袋を広げてくれます。
 豆腐屋のおばさんは、「豆腐一元」と言うと、包丁で、まだ暖かい豆腐を切り取って、秤にかけてくれるのですが、毎回ぴったし一元の量になるのです。「おみごと!」、感嘆の声を上げると、おばさんは、得意そうな顔で、にっこり笑います。
 人と人との距離は、こうして近くなっていきます。はじめ無愛想な人も、近づいていくと、気のいい面白い人であることが分かってきて、親愛の情が通い始めます。近づかなければ決して分からない、湧いてこない心情です。
 パン屋では、焼き餃子が一元で五個、マントウは一元で四個、パオズ(小さな肉まん)は一元で5個、普通のパンは二元で三個、ちなみに一元は13円ほどです。