①  日本語を学ぶ農村青年

 
 8月19日から10月22日まで、中国・青島で日本語を教えていました。青島は一時、ドイツの植民地でしたが、第一次大戦で、日本が青島のドイツ軍と戦って勝利を収めてからは、一時期を除いて1945年まで日本の統治下にありました。
 ぼくは、下町の、六階建て住宅の三階に住み、ひとりで自炊しながら暮らしました。近くの青島技工学校内にある中国労働部の研修所までは歩いて7分、途中公園を抜けて通います。30人の労働者がぼくのクラスでした。全部で3クラス。研修生は全員農村出身者です。
 僕は午前中3時間半教え、午後は中国人の女性スタッフが教えます。夜は自学自習です。
 「あいうえお」から教え、一ヶ月した頃から、一人一人と自習タイムに語り合いました。かたことの日本語と中国語、そして中国語の筆談を交えて、家族、これまでの生活、日本へ行く目的。
「お父さん、お母さんの仕事を手伝いますか?」
 農業を手伝うか、この問いに、ほとんどの人が、手伝うということでした。いちばん年長の27歳の班長は、1月から12月までの、農作業を黒板に書いてくれました。
 播種、防除、管理、ふだんは工場で働いていますから、休日に手伝うのでしょう。農業では収入があまりに少ない、だから将来自分で商売をしたい、小さな工場を持って稼ぎたい、などの夢を彼らは持ち、そのために日本へ3年間出稼ぎに行くのです。
 学歴は、中卒の子と、高卒の子、職業学校出の三種類に分かれましたが、優秀な人が中卒に多いというのは、貧しさのために進学できなかったからなのでしょう。
 後半に入ったある日、ひとりの子が、
「先生、餃子を食べに行きましょう。」
と誘います。その人は、勉強も行動も大変ゆっくりしている人で、成績は芳しくありませんでしたが、日ごろの態度に、ちょっと違った感性を示しているように思える人でした。おもしろいときは笑顔、悲しいときには泣き出すような表情があり、情の深い人のように思えました。
 その子ともう一人の子と餃子店に入りました。
 途中ぼくがトイレへ行って帰ってくると、案の定、彼がお金を払っています。それは、絶対ダメだ、あなたたちは研修生であり、これまでたくさんのお金を使ってきた、これ以上お金を使ってはいけない、とぼくがお金を出すと、頑として受け取りません。そして、紙に、こんなことを書いたのです。
 「老師の教育の情に感謝しています。老師の気持はよく分かりますが、老師にお金をださせることはできません。私達の気持も理解してください。中国のことわざに、『一日師となれば、生涯の父となる』という諺があります。」
 僕は胸にぐっと迫るものがありました。
 それから数日して、彼は一枚のCDもプレゼントしてくれたのです。それは、「梁祝」という曲で、梁山泊と祝英台の悲恋の物語でした。
 「私は、夜、仕事から帰ってくると、一杯のお茶をいれ、部屋の電灯を消して、静かに音楽を聴きます。それがいちばんの楽しみです。テレビは見ません。この曲は中国の人はみんな知っています。先生が気に入ってくれたらうれしいです。」
 二人の恋は結ばれず、死んで蝶々になるという話、
「ロメオとジュリエットのようだね」
と言うと、
「中国のロメオとジュリエットと、言われています。」
と、彼は応えました。
 彼の夢は、3年後日本に帰ってきたら、弟とJUKIの小さな工場をつくりたい、というものでした。