日本の学校は?



 無表情でぶっきらぼーで、どことなく暗い感じのする彼が、小声でぼそぼそ語り出した。それまであまりしゃべりたがらなかったのに、突然語りだしたのは、彼が語る気になったからで、語る気になれなかった状態から解かれたからで、その変わり目が来て表情が変化した。無表情が消えて、表情が生き生きとしてきたのだった。この夏までドイツの高校へ留学して三カ月体験し、来年また一年間行くという話、それにぼくが強い関心を示したからだった。
 彼は話した。日本の中学校の学校体制、それは彼を束縛するものでしかなかった。しゃくし定規な指導、管理体制、硬直した授業、自由度のない教師たち、たぶんそういう学校に息が詰まったのだろう。彼はその状態をなかなか的確に話した。
 彼のように息の詰まった生徒は、生気を失い、無気力になり、現状に不満を抱き、批判的にもなる。そうなれば、教師たちの彼への見方がどうなるか、ぼくは充分に想像できる。理解できる。教師の偏頗な見方が彼に注がれたのだろう。だから彼もまた自由度を失い、自由な学習をそこに見出すことができなかった。そこで彼は日本を脱出することにした。自分でそう考え、そうする道を調べた。情報をネットで調べるとドイツ留学が見つかった。家族も支援してくれて、彼はドイツへ行った。そして三か月間体験的に学校に通って、地元のサッカークラブにも入った。彼は、日本にはないドイツの学校教育やスポーツクラブのゆとり、自由度、教育への支援態勢、合理性、教育観、ドイツ人の友好性を知った。体験した。
 自己を語りだした彼は実に饒舌だった。
 彼が適応できなかった日本の学校教育の話には、ほんとうにぼくもそうだと思う。いったい戦後71年かけて、日本は何を生みだし、何を積み上げ、何を確立し、何を目指しているのかとぼくは痛切に思う。
 「学校は、わが学びの場にあらず」と、学校を見放した十数万人の子どもたちのいる日本の現実。それは単なる不適応ではない。
 海外留学、それは彼にとっては希望になっている。スウェーデンノルウェー、ドイツなどの国では、留学生に対しても教育費無償に近い支援があるという。
 行っておいで、来年一月の末からドイツへ。
 ぼくは応援したい。彼はそれまで、ここで勉強する。

 「無着成恭 ぼくの青春時代」<2>


 人生を通して、ぼくは戦後の教育を体験してきた。たくさんの教師たちがぼくの人生を通り過ぎていった。戦後の自由な教育改革の中から生まれてきた創造的献身的な教師たちの数々の実践と情熱に共鳴し、一方で、戦前の体質を温存して生きる権力的教師たちや、自己保身と昇進にこだわり、研究と実践をないがしろにしている教師たちを慨嘆もしながら、遅々として進まないように見える日本の学校教育の真の姿はなんだろうかと、思いはいつも子どもたちの上に飛んだ。もっとも危惧するのは、学校の教員たちに、討議・討論と言えるもの、研究と言えるものが、日常的にどれだけ存在してきたかということだった。
 戦後70年、科学技術・工業技術は大きく進歩した。医学も進歩した。スポーツも次々と記録が更新した。そこには絶えざる研究と実践があり、成果が公になり、響き合い、切磋琢磨がなされてきた。では学校という世界はどうなのかと。

 「山びこ学校」の無着先生は、戦後の学校教育をつくる実践にあたって大切にしたのは、討議だった。そこでまず歴史的人物を研究することにした。教壇に立って間違いのない、自信のある授業をするためには、科学的に正しい人間の発展の歴史を身につける以外に方法はない、と論議され、その結果、歴史をいちばん簡単に身につける方法は、十五人の先生がみんな、足利尊氏なら足利尊氏を研究してきて、みんなで語り合い、足利尊氏という人物がなぜ歴史のうえに生まれてきたか、そのときの社会的な条件はどうだったか、などと吟味すれば面白いということになったのだ。山元中学校のこの教育研究会は、水曜会と名付けられた。
 無着先生は、水曜会で「東西ドイツ青年からの手紙、ぼくらはごめんだ」という本をテーマにして感想を述べた。その発表が、「人間の記録 無着成恭」のなかに収められている。

 「いちばん感じたことは、ヒットラーナチスに対して、徹底的に批判していないことではないかと思う。たしかにアメリカやソビエトの現在のやり方に対する批判は痛快であるけれども、私たち日本人にとっては、歴史的な方向を見定めるために、ぜひ東条や軍国主義というものを全日本人が頭の中で洗ってみなければならないと思う。この本の中に、今ごろ、東条の軍閥ヒットラーにたいする批判がゆるされていたって、いったい、そんなもののどこが、言論の自由だというのですか?というところがありますが、このへんが日本とドイツとの決定的な違いではないかと思って読みました。やっぱり日本では、今ごろと言われるかもしれないけれど、東条や軍閥天皇を、批判できるようになったこと、そしてそれを徹底的にしてこそアメリカやソビエトに対しても批判ができる、という段階なんではないかと思うのです。ただ、日本でたりないことは、新聞自身が自己批判をさけていることだと思います。新聞の今の調子は、戦争中から民主主義者だったというような顔つきで、東条の軍国主義を批判していることです。新聞は頬かぶりしているのです。ここに日本の現在の問題があると思うのです。」
 無着がこう発表したことに対して、賛否の意見が出されたようだ。その本の次の箇所はみんな同感だと言ってくれたと無着が記していることからそれが伺える。ドイツ青年の手記の一部。

「君たちがなんの私心も党派色もなく、ただ人間として本心から平和を叫び、戦争反対をとなえたとしても、君たちは“赤の手先”というレッテルを貼られて、弾圧されてしまうのではないのでしょうか? かれらは、じつは、君たちを“赤の手先”だと思い込んでいるから弾圧するのではなくて、平和を叫ぶ人間や、戦争反対をとなえる人間を弾圧したいから、その口実を作るために、君たちに“赤の手先”などというレッテルを貼るのです。」

 この箇所に、先生たちはみんな「たしかにそうだなあ」と言う。水曜会が終わったのは午後六時半だった。
 水曜会で討議したテーマに、「盗みをなくすことができるかどうか」というのもあった。その討論も活発だったようだ。盗みはなぜ起きるのか、と考えていくと、十分に働くことのできる仕事がないという現実社会に議論が向かう。次に、その仕事に対する目的意識はどうなんだ、ということになった。仕事の価値を認識していなければ、仕事への情熱もわかないではないか。「おれは、この仕事をとおして、貢献しているんだ」という考え方になれば生き甲斐があり、仕事を愛することができる。では、そうなるにはどうすればいい? 議論はこうして延々と続き、発展して、とうとう盗みはなくなるというところまで行った。
 教師たちのこのような情熱が、子どもたちへの教育活動につながって、「山びこ学校」の実践となった。無着成恭はその後、明星学園の教師にもなる。そうしてその実践理論も変化進展し、「続山びこ学校」となって発表された。

 討議する、現実をつかまえる、問題意識を持つ、問題の核心をとらえる、解決を考える、このような話し合いを教師集団のなかに育てていく実践は、戦後の学校現場や民間教育研究会の重要な目的でもあった。教育科学研究会の実践、全国生活指導研究協議会の実践、仮設実験授業研究会の実践、生活綴方教育を継承する日本作文の会の実践、同和教育の実践など、何十何百の教育研究が萌えいずる若葉のごとく生まれ出てきた戦後、その情熱を今の日本の教師たちはどれだけ継承しいるだろうか。
 今の学校で、議論し、意見を出し合い、自分の考えと異なるものであってもまず「よく聴く」ということがどのように行なわれているだろうか。

 「無着成恭 ぼくの青春時代」<1>

 日本図書センターが「人間の記録」というシリーズを出版している。一冊一人、その人の著述・自伝を集めたもので、田中正造から始まり、今で174巻目になるらしい。これはまたすごい。実に多彩な人物像が本人の記録で集大成されている。他者の評論はなく、丸ごとその人の文集になっている。今、ぼくはこのなかの「無着成恭 ぼくの青春時代」を読んでいる。僧侶として晩年を送る無着さんは、この現代をどう見ているか聞きたいものだが、あの戦時下を生き、戦後の日本の教育に大きな影響を与えた彼の思想と実践、生きざまに、今はとりわけ学ぶことがあるように思う。
 70年近くの年月を経て、今の学校教育はどれほどの深化をとげたのだろう。教育とは何だろう。
 1948年(昭和23)、山形県の山元村の中学校に赴任した青年教師、無着はそこで、あの「山びこ学校」の教育実践を行なう。その実践は学校という枠を突破して、村づくり地域づくり、日本の教育の在り方にも発展していった。
 昭和19年、彼は旧制山形中学校の、17歳の生徒だった。そのときの日記がこの本に収められている。中学生たちは、勤労動員で学校から飛行機製造工場へ働きに行っていた。

 昭和19年8月26日
 「今朝もまた予科練の入隊者があり、壮行式。軍人勅諭でなく、海ゆかばの歌と校歌で送ることになった。ゲートルを巻きながら、いやになってきた。何にいやになってきたかというと、その正体が自分でもつかめない。こんな風に働いているのがいやでもあるし、生きているのがいやなようでもあるし、とにかく、ああいやだいやだ、という感じである。それでも工場に行った。‥‥」

 昭和20年3月31日 夜に卒業式。生徒たちは校歌を歌って別れを惜しんだ。
 「夜、警戒警報のカバーをつけた薄暗い電灯の下で卒業式だった。『仰げば尊し』の歌は敵性をふくんでいるので歌わなかった。『君が代』も歌わなかった。歌ったのは校歌だけだった。
    ……
    ああわが紅顔未来の光り
    望みにあふれて日夜に進み
    業なるあした二つの肩に
    国家の運命雄々しくおわん
 ぐっとこみあげてきて歌い続けることができなかった。もう卒業なのだ。俺はダメだ。俺はダメな奴だ。そう思うと、涙がぽろぽろとこぼれてきた。卒業式が終わり暗い外に出たとき、俺が『お前と俺とは同期の桜‥‥』と低い声で歌った。それがみんなに伝わり、ぞろぞろ道を歩きながら大合唱になっていった。
  咲いた花なら散るのは覚悟
  見事散りましょ国のため」

 昭和20年8月15日 無着は山形師範学校に進学するが、そこでも戦争遂行の動員作業で、山に登って松根油を掘っていた。

 「正午に重大放送があるというので、午前中馬力をかけて松の根を掘り、山を下りた。ラジオは社務所にしかなかったので、一里の山道を飛ぶように走っていった。
 みんな静かに聞いたけど、なんのことかわからなかった。あとの説明を聞いているうちに戦争は負けて、終わったんだということがわかった。
 夜、馬鈴薯をゆでてもらって塩をつけて食べた。みんなものも言わずぼそぼそ食べた。海軍の下士官が、『貴様ら、日本が負けてうれしいのか。腹を切れ、腹を切れ』と言って泣き喚いた。少しよっぱらっていた。」

 無着成恭は山形師範学校二年、弁論大会の演説原稿が載っている。その中に次の文言があった。
 「‥‥ぼくたちの問題は二つになってくるわけです。一つは、日本は正しくなかったという前提に立って、何が正しくなかったのかということを明らかにするという問題です。もうひとつは、何が正しくなかったのかということをはっきりさせまいとしている人がいるということです。その人はいったい誰なのか。なぜ、何が正しくなかったのかということをはっきりさせまいとしているのか、という問題です。‥‥
 つまり、日本が戦争に負けたことによって、はじめて、日本人がほんとの意味で、『敵は幾万ありとても』と歌って戦わなければならない時代に入るのだというのがぼくの意見です。戦争中よりも、敗戦のときよりも、もっともっとつらい、しんぼう強さを要求する戦争が、ぼくたち日本の青年の上におおいかぶさってくるだろう、というのがぼくの意見なんです。」

 昭和23年、師範学校を出た無着は山元村の中学校に赴任した。
 教師としての無着は、生徒とともに生きながら、「なぜ」「どうして」の問いを発し続ける。現実を見ろ、現実はどうなっている、どうしてそうなっているのか、この問いかけが生徒の学びを深化させていった。

 日本が再軍備を始めたころ、無着先生は、村のダンゴ屋に入って、ダンゴ屋のおっかあと語り合う。おっかあの息子は、自衛隊の前身、警察予備隊に入った。仕方なしに入隊を認めた。けれども入ったまま帰ってこない。帰ってこずにアメリカのために死ぬようなことにならないか。おっかあが言う。
 「戦争のためなら、ただ一人だって殺したくない。かたきの子だって殺したくない。あとに残された人ば見てけろず」
 兵隊に行って、若い者たちが死んでいった。戦後の今また、ひとりであっても殺されるような戦争に行かせたくないし、敵をも殺したくない。おっかあの真情だ。
 無着は、村人たちの気持ちを証明する「幹部だけの軍隊」という小論にこんなことを書いている。

 「村には、戦争はコリゴリだという空気がみなぎっている。難儀をして育てた息子をだれのためだかわからないタマのマトにしてたまるもんか、という空気が充ちている。戦争に賛成する奴がまっさきに戦争に行って死ねばよい。戦争に賛成する奴にかぎって、戦争に行かない奴らだ。そんな空気がみなぎっている。それは役場に行って調べてみればまったく無理なことではないと分かるのである。たとえば山元村で大正10年に生まれた男の数は31人で6人の戦死。11年が37人生まれて10人の戦死。12年が23人生まれの9人戦死。割合で言えば、大正10年が2割、11年3割、12年4割、13年1割、14年1割5分、15年1割4分、の戦死となっている。そして、お嫁さんの方は、13年、14年、15年の生まれの娘さんの中に、いわゆる売れ残りというのがいちばん多く、3名、2名、4名、となっている。しかも各年を通じて、2名から4名の亭主戦死のための、出戻りがあるのである。そして今、お嫁さんになるのは、昭和4年から7年にかけて生まれた娘さんたちである。だから、戦争が始まれば、また何割かの娘さんがお嫁にも行けず、家でもじゃまにされ、首でもくくらねばならないということが始まるだろう。」

 

 生徒の命を奪った教育


 子どもの頃、あるいは大人になってからでも、「小さな悪」、「小さなズル」をしたことのない人はいるだろうか。あの時のあの行為、大概の人は思い当たることがあるだろう。そして、そのことの「小さな罪」が、自分の心の戒めになっていることに気づくだろう。
 ぼくにもその経験がある。万引きをすればどんな気持ちになるだろうかと、120円の小さなオモチャを万引きした。ばれなかった。けれど、そのときの怖れ、気持ち悪さ、嫌な思いが、二度としないという戒めになった。
 子どもはヤンチャをして、いたずらをして、時にはごまかしやズルもして、そうした体験から感じるものによって、心は育っていく。
 3月17日の声欄に、元高校教員のこんな投書が載っていた。
 <広島県の中学3年生が、万引きしたという誤った非行記録によって志望高校の「専願」受験を認められず自殺してしまった。原因として多方面から指摘されたのは、学内における生徒指導のデータ作成や、情報伝達・共有のずさんな態勢である。死を無駄にしないためには、情報管理について徹底した検討と対策がが必要だ。しかし、再考されなければならないもっと重要なことは、学内の指導システムではないのか。万引きなどの過ちは、生徒にしっかり寄り添って指導を徹底すれば反省させることが十分にできるはずだ。一度でも万引きなどの過ちを犯してしまうと、推薦が必要な専願受験を「できない」とするのは、「指導」というより「脅し」であろう。生徒にとって受験とは自分の人生がかかっていると思うほどの重大事だ。自殺した生徒は、「どうせ言っても先生は聞いてくれない」と保護者に話していたという。この学校において最も大事なことは、教員と生徒の十分な信頼関係にもとづく本来の生徒指導に立ち返ることではないだろうか。>(朝日)
 この投書の続いて、女子高校生の投書が載せられていた。要約すると、
<私は、学校側のミスで高校の推薦入試が受けられなくなり、大きなショックを受けた。そのとき学校のシスターが私を抱き締め、涙して、「起こってはいけないことが起こりました。でも、この試練は、あなたに耐えられる力があるから神様がお与えになったのだと思います。しばらく頑張らなくてもいい。だけど心を強く持ってね」と言ってくれました。この言葉がなければ。私も広島の生徒のように自分を追いこんでいたかもしれません。私は第一志望校に合格しました。苦しみ続けた日々には意味があったと今なら言えます。広島の中学生には支えてくれる人が校内にいなかったのでしょうか。こんな事件が二度と起きないように心から願っています。>

 ぼくの頭に45年前の事件が浮かんだ。
 東京・麹町中学校に在学していた男子生徒が、当時高校・大学で火を吹いていた学園闘争の影響を受けて自分の中学校で活動を行った。そのことが高校受験のときに中学校が作成する内申書に書かれ、受験の面接では思想にまつわる質問を集中的に受けた。受験した全日制高校は全て不合格であった。全日制を断たれた彼は定時制高校に進学した。だが、そこも中退した。
 この出来事は裁判闘争に発展した。学生運動経歴が内申書に書かれたために全日制高校に入学できず、学習権が侵害された。被害生徒は千代田区と東京都を相手どり、損害賠償請求訴訟を起こした。当時大阪の中学校で教員をしていたぼくはこの事件を知り、黙っているわけにはいかないと、その裁判闘争を支援する会に加わった。一審の東京地裁は原告の請求を認めた。が、二審・東京高裁は内申書を執筆した教員の裁量を認め、原告敗訴。最高裁は単に経歴を記載したにすぎず「思想、信条そのものを記載したものではない」として上告を棄却した。ぼくは、この判決は欺瞞であると思った。学生運動に参加したことを記せば、高校側がどう判断するか、その記載によって思想・信条を判断し、不合格にすることは自明のことである。進路を閉ざすであろうその記載を、中学校の教師は予想して書いたのだろう。
 
 それから45年。
 今回の事件、万引きをしていないのにしたとされ、進学の夢を断たれて自殺したと報道されている。この痛ましい事件にぼくは、変わらない日本の学校教育と進路指導と内申書の欺瞞を想う。観念の所産がいつも密かに行われている。教師の想いによって、筆一本で、生徒の人生、命が左右される。
 担任教員は、およそ面談にはならない廊下の立ち話を面談とし、そして得た「万引きしたのだろう」という予想を「事実」として、高校進学の決め手に使った。これは教師の人間性の問題であろうか。人間を育てていくことを務めにしていることを自覚している教師であれば、生徒が仮に万引きしていたとしても、その情報を進路指導に使うことはない。
 このような教師のありようがまかり通る学校教育の根源の問題が問われなければならないのだ。
 
 45年前の内申書裁判、原告の名は保坂展人。それから月日が流れた。
 ある日、新聞報道の政治家の中にその名前があることに気づいた。ああ、彼は、政治の世界に入ったのだ。
 保坂展人宮城県仙台市に生まれた。衆議院議員3期、社会民主党副幹事長、総務省顧問等を歴任、教育ジャーナリストとして活躍。そして2011年4月、東京都世田谷区長になった。

 卒業


 もうすぐ卒業していく子どもたちへの担任教師の熱い想いがEメールで届いた。

 <卒業ということが、こんなに自分の心を揺り動かすとは思ってもみなかった。
今のわたしは、自分でも驚くような「惜別の情」に悩まされている。自分は、もっとあっさりしたタイプだと思っていたがなあ。
 正直、子どもたちが、かわいくて仕方がない。男子が6年生らしからぬほどのやんちゃを振りまきながら、真剣に鬼ごっこをしてから教室に戻ってくる姿さえ、なにか本当にかわいくてならぬ。この子たちと、ほんのあと何日かでさよならすることを思うと、なんだか、ちょっと目にゴミが入ったかのようで、涙腺が……という感じ。
 一人ひとりが、今までよりも、すごく大きく見える。>

 久しぶりに触れたその想いに、若かりし日の担任教師としての記憶がよみがえった。この記憶は、冷気を含んだ早春の日の光ととともにやってくる。教師になって最初の卒業式は、講堂がまだなかったから運動場の青空卒業式だった。ベートーヴェンの「田園交響曲」で始まった式の終盤、「蛍の光」の斉唱になると思いがけず涙があふれた。ぼくは涙を生徒たちから見えないように顔を上げていたが、空は涙でぼやけた。教室から椅子を持ちだしてグランドの土に並べた生徒席の、一番前に高君が座っていた。歌が終わって生徒席に目をやると、泣きそうな表情をしてぼくをじっと見つめる高君の顔が目に入った。式が終わって最後のホームルームに教室にもどると、黒板いっぱいにクラス全員の別れの言葉がぎっしり書き込まれていた。
 生徒同士が、さらに生徒と教師とが、親しく深い関係性を結んできたクラスであったから、その時の記憶は鮮烈に残っている。
 
 Eメールを読んでからぼくは学校に向かった。
 今勤務している学校の通信制の卒業式は先日の日曜日に行なわれた。その卒業式に出られず、卒業証書の授与を延期された生徒が一人いた。スクーリングの日数が足りず、それを満たすために数日登校しなければならなかった生徒であった。ぼくはその生徒の最後の3時間を一緒に過ごした。午後4時になれば、卒業の条件は完全に整う。それまでぼくは彼と向かい合って話をした。
 家庭の事情で高校を中退して、アルバイトをしてきた。2年ほどして通信教育で高校資格を取ろうと思った。今働いている会社で将来正社員として働きたい。それが夢だ。夢の実現にむけて、英語と中国語で会話できるようにしたい。さらにコンシェルジュになろうと思えば、信州の地理、歴史、自然、観光事業などの勉強も必要だ。そしてお客さんに、この人に出会ってよかったと思ってもらうには、心からその人が希望していることをかなえられるようにサービスしなければならない。
 話は広がり、ウエストンの日本アルプス探検記から、旧制松本高校の学生の話、塩の道、松本市内の古本屋から東京神田の古書店街の話、徳川幕府の政策から東海道中山道の話……、とどまるところを知らず。
 午後4時、ぼくはまたドイツ学生の出発を讃える歌を歌い、彼の出発にエールを送った。もう会うことはないだろう。彼は感謝のことを述べて、満面の笑顔で帰っていった。

  朝のメール。
 「子どもたちが、かわいくて仕方がない」、これこそ教育の真髄なのだ。親にしても教師にしても、そうであるから子どもの命が育つ。
 「やんちゃを振りまきながら、真剣に鬼ごっこをしてから教室に戻ってくる姿、本当にかわいくてならぬ」、思い切り遊ぶ子どもを見ると感動する、かわいく思う、それこそが教師だ。
 「一人ひとりが、今までよりも、すごく大きく見える」、そう、そう、子どもたちが今生きることに一生懸命であるとき、自分を生き生きと発揮しているとき、子どもは大きく見える。全身で生きる子どもたちは大きく見える。子どもは小さくて大きい。場合によっては、大人より、教師より、大きくエネルギッシュで、聰明な存在だ。


 森 毅(1928年生)がこの頃新聞にもテレビにも出てこないなあと思っていたら、 2010年に亡くなっていた。あー、惜しいことをした。京大の名物教授で変わりものの数学者、評論家、エッセイストだった。
「戦時中、ぼくはというと、自他共に許す非国民少年で、迫害のかぎりを受けた不良優等生やった。要領と度胸だけは抜群の受験名人や。それに極端に運がよくって、すべての入試をチョロマカシでくぐりぬけた」という「おもろい人」で、「エリートは育てるもんやない、勝手に育つもんや」というのが持論。この人は、自分もそうだったから、枠からはずれたやんちゃな子が好きだった。普通ではない変わった個性の子がいたら、そういう子をおもしがるのが教師というもの、子どもはほんまにおもしろい。子どもをおもしろく思わない人は教師失格やと言っていた。

 小・中学校の校歌と故郷の大地 <2>

 むかし? 新任教師として赴任した大阪市の淀川中学校は新設校だった。校歌はまだなかった。校長は校歌をつくろうと考えた。どこでどういう風に決まっていったのか分からない。ある日、「日本の詩歌全集」に収められている名の知れた詩人がやってきて、校長室で話し合った後、三階校舎の階段を上がって屋上に立った。詩人は周囲を見渡し、近くに草の生えた高い土手が長々と横たわっているのを見た。堤の向こうには淀川が流れている。水の流れは見えない。後ろを見ると、住宅と工場の建物が一面に広がっている。イメージを得た詩人は帰っていった。
 むかし、江戸時代、俳人与謝蕪村の生まれた毛馬村がそこにあった。毛馬キュウリや毛馬大根が名産だった。農村は都市化に飲まれて消滅していた。
 詩人から校歌の歌詞が学校に届いた。

    彼方の海からとびたてと、
    呼びかけ招いて はばたきみせて
    近よるつばさ 若葦の
    見上げるまなこ もえたつわれら
    淀川 淀川 淀川中学校
    ‥‥
 生徒の生活実感からほど遠い歌だなと思った。その歌詞にどのようにして曲が付いたのかはぼくは知らない。
 次の学校は教育委員会が「教育困難校」に位置付けているところだった。ぼくは志願して赴任した。そこには差別の重い現実が沈んでいた。立ち上がった校区の被差別部落の運動と教職員組合の教育運動とが共闘会議をつくり、差別教育行政を撤廃する闘いを起こした。闘いは新しい学校建設の運動へと発展した。教師と市民は徹底した討議を行ない、そうして誕生した学校では、ゼロから教育内容を考えた。ぼくもその一員だった。校歌はつくらない、愛唱歌をつくるという方針はその一つだった。入学式、卒業式で歌う歌は生徒が歌詞を創った。ほとんどの学校では、校歌は入学式・卒業式で歌われる儀式の歌となっている。しかし、実際に生徒たちはどれほど気持ちを込めて歌っているだろうか。生徒が歌いたい愛唱歌を卒業式で歌おうじゃないか、卒業式の主人公は生徒だ。
 転勤した二校目だったか四校目の学校だったか、その校歌に、次のフレーズがあった。
 「河内が原の空高く 立てる理想の 学び舎に 希望はてなき若人は 文化の華を咲かさんと‥‥」
 すごい言葉が並ぶ。だが教育の実態はとてもそんなものではなかった。校歌と実態とが乖離していた。校歌は目指すべきビジョンであるとも言えるから理想を描くのはよい。校歌に、団結や一体化を求める意味もある。が、生徒は歌いたくなければ歌わない。つらい苦しい思いをして学校の中で耐えている子らにとっては、校歌を歌う気力がわかない。生徒たちが誇りをもち愛着心をもって歌うならすばらしい。生徒の心に校歌が定着していないのに、卒業式で、歌いたくない子、歌う気になれない子に強制しても声は出ない。
 「校歌だから歌わなければならないのだ」という考えは、教育の原理と逆ではないか。
 現代の日本の不登校児童生徒の数は、十数万人に及ぶ。今はもう学校に行きたくなければ行かなくてもよい、フリースクールで学んでもよい、という考え方になってきている。その子らにとって母校はどこだろう。校歌はどこにあるだろう。
 「歌いたくなければ歌わなくてもよい」という共通理解が前提にあって、「それでも卒業式にはみんなで校歌を歌おうよ」と、生徒たちが話し合い、そこから生まれてくる思いの共有が歌に結晶していくのであれば、「校歌斉唱」はそれまでとは全く異なるものになるだろう。
 これは卒業式で「国歌 君が代」を歌うことと共通の課題だ。卒業式で教師たちが歌っているかどうか、口の動きをチェックしてまで歌わせることと通じるものがある。歌わない教師を罰するという、精神に対する強制が、今や大手を振って行なわれ、教師たちが自己の考えや精神を抑え込んで従うようになっているとしたら、この国の教育はますます衰退していくだろう。
 
 萩原朔太郎が、昭和14年、「宿命」という散文詩を書いている。そのなかに「虚無の歌」というのがある。その一節は朔太郎の中学生のときの心境である。

 「ひとり友の群れを離れて、クローバーの茂る校庭に寝ころびながら、青空を行く小鳥の影を眺めつつ
     艶めく情熱を悩みたり
と歌った中学校も、今では他に移転して廃校となり、残骸のような姿をさらしている。私の中学にいた日は悲しかった。落第。忠告。鉄拳制裁。絶えまなき教師の叱責。父母の嗟嘆。そしてやきつくような苦しい性欲。手淫。妄想。血塗られた悩みの日課
 ああ、しかしその日の記憶も荒廃した。むしろ何ものも亡びるがよい。」

 このときの中学校は旧制中学校だから、今の中学時代にプラスして高校2年まで、5年制だった。
 校歌――、最近は子どもたちの生活に根ざした、身近な内容のものに変わってきていると思う。卒業式も入学式も生徒本位のもっと自由で楽しいものにできないものか。

 さて、話は戻って、
 来年のイベントに向けて、お年寄りの合唱団員は、少年時代を懐かしんで歌っている。長い人生を振り返り、今の子どもたちよりも元気な声で。

 大阪の教育に観る危機


 待ち合わせ場所は紀伊国屋書店のインターネット本のコーナーだ。行くと男がいる。きれいな白髪頭だ。
「ゴンパチ君!」
 小声で呼ぶと、振り向いた。当たり! 彼だ。地下街の喫茶店に移った。
「ぼくもこんな調子」
 帽子をとって、毛の薄くなった坊主頭を見せる。
 12年ぶりだった。30代のとき同じ学校で、被差別から立ち上げていく教育と運動に共に没頭した。
「今、大阪はえらいことになってるよ」
 彼は大阪の現状をとつとつと語った。教師たちに活気がない。上からの締め付け、統制が強くなり、組合に入る人は激減、組合員の教育研究活動も制限され消滅しつつある。管理職試験を受ける人は減っており、教頭の成り手が足りない。だから、30代の教員が教頭になっている。教育経験も教育理念や教育技術もきわめて不十分な人物でも管理職に採用せざるを得ない。校長を民間から登用することも行われているが、問題が次々起こって、校長職を退かざるを得ない人も出ている。企業の論理を教育の場に持ち込むこと自体どだい無理なことだ。教員の成り手も減った。大阪の教員採用試験の倍率は驚くほど低く、教員の質も低くなっている。教員給与も最低だ。心ある教師も、雑務、事務量に振り回され、子どもと直接ふれあう場面がない。全国学力テストも最低レベルにあり、学力面でも大きな課題を抱えている。そんなこんなで新採教員の離職率も高い。
 彼はホッとため息をついた。教師たちは疲弊している。夢がない。情熱がわかない。
「明日は知事と市長の選挙やなあ」
「だめやね」
 もう結果は見えているという。そしてその通りだった。
 彼といっしょに教育実践を行なっていた1970年代、ほうはいとして教育実践運動が全国的に起こっていた。被差別の現実から立ち上がった、部落解放教育、在日韓国・朝鮮人の教育、障がい児教育、夜間中学校をつくる運動、公害から子どもを守る運動、そして教科指導の各分野に生活指導、学校行事、学校の民主化、あらゆる分野で、自主的な民間の教育運動が開花していた。それは敗戦の歴史現実に立脚して、民主主義教育を創り上げていこうとしてきた大きなうねりだった。
 全国的にも先導的だった大阪、あの時代のエネルギーはどうなったのだろう。
 11月24日の朝日新聞社説を読んで驚いた。

<「ゼロトレランス」という言葉がある。「寛容度ゼロ」と訳される。小さな問題をあいまいにせず、段階に応じて罰則を定めた行動規範を子どもに示し、破ったらペナルティーを科す。そんな生徒指導法のことだ。
 1990年代、学校で銃乱射事件が相次いだことを受け、全米に広まった。
 これにヒントを得た「学校安心ルール」という指導法を、来年度から大阪市教委が導入する。問題行動を5段階に分け、レベルごとに対応を定める。
 たとえばこんな具合だ。
 【レベル1】授業に遅れる ▽ずる休み ▽先生をからかう
  →その場で注意。聞かなければ別室指導。従わなければ奉仕活動か学習課題を課す。
 【レベル2】先生の悪口を言う ▽友達を仲間はずれにする
  →複数教職員による指導と家庭への連絡。改善しなければ、数日間の奉仕活動……
 レベル4、5の暴力や傷害には、警察への通報や出席停止措置などが明記されている。
 対象は市立の全小中学校424校で、徹底させるため、市教委は学校がルール通りに動かなければ市教委に通報するよう保護者へ呼びかけるという。
 問題行動の背景は子によって違う。学校の事情もそれぞれだ。「ルールだから」とマニュアル的に対応するのは無理があると言わざるを得ない。「ぶれない指導で安心、安全な学習環境を確保する」のが市教委のねらいだ。だが、そもそも問題行動にどう対処するかは学校自身が決めることだ。市教委は「学校の裁量もある程度認める」と説明する。ならばなぜ、保護者に監視させるような仕組みまで作るのか。
 罰則規定をしゃくし定規に当てはめるようでは、子どもとの対話も失われかねない。確かに先生にかつての権威がなくなり、学校の規律をどう守るかは悩ましい問題だ。暴力を止めようとしたら「体罰だ」と言われたり、ささいなことでキレられたり。子どもが変わったと感じる先生も多い。
 ルールを守らせるのに手がかりが欲しい。そんな声もあろう。だが、統一的な基準を作るにしても、あくまで教員間の指導の目安にとどめるべきではないか。困難であっても、子どもに直接向き合う先生がその子に合った対応を考える。それが教育だからだ。
 市教委は来年度の1学期から試行し、2学期から本格実施するという。現場の教員からは疑問の声や、撤回を求める動きもある。強く再考を求めたい。>

 以上がその社説。かつて、管理主義教育が蔓延していたころ、細かい規則を作って、それを守らせようとする教師たちは、規則違反に目を光らせ、生活指導部の教員は取締隊の様相を呈していた。「髪の毛の長さ」「スカートの丈」「ベルトの色」など規則は多岐にわたった。
 そしてこの動き。
 教育の本道が崩れていく様を見る思いだ。
 ぼくは彼に言う。
「教育実践を積んできて、教育観をもつ教師たちが、今立ち上がるべきではないのか。退職した教員たちは今何をしているのか」