斎藤さんの、シベリアの記録

 

 私の矢田中学と矢田南中学時代の、同僚であり先輩教師であった故・斎藤弥彦さんは、2015年に私家版で「弱者の立場に立つ」という書を作っておられた。齢89歳だった。その本を、真佐子さんが私に送ってくれた。

   それを読んで、やはり斎藤さんの原点は、シベリア抑留だったことが分かった。

そのシベリア抑留時代のあらましは次のような内容だった。

 

    旧制中学4年の時、太平洋戦争が始まり、学校では軍事教練が重要な科目となった。学校には配属将校がいて大きな力を持っていた。中学の先生たちにも召集令状が来て、戦地に出ていき戦死する人もいた。

 中学を出ると私は、学費も生活費も無償だった満州の建国大学に進学した。建国大学は、満州国の役人を養成するところで、65万坪の敷地は日本が中国農民から取り上げたものだった。

 1945年5月、私は19歳になり、満州ソ連の国境の町、アムール川に沿った黒河の野砲隊に入った。

    8月9日、ソ連軍の満州侵攻が始まった。私の部隊は戦線に向かったが、途中で日本の降伏を知らされ、部隊はソ連軍の支配下に置かれて捕虜となった。私たちはハルピンで武器を捨て、ソ連軍の捕虜収容所に入れられた。

 独ソ戦に勝利したソ連軍の兵士はすさんでいた。彼らは日本人から略奪し、女性に暴行し、日本の農民開拓団は、流民となって命を落としていった。

 国とは、政府とは、軍隊とは‥‥、私のこれまでの考えは揺らぎ始めた。

    私の捕虜生活が始まった。私たちはソ連の貨車に乗せられて、バイカル湖の西北、タイシェトに送られた。駅を出ると、私たち捕虜は、タイガ(針葉樹林)の中を歩いて、 ラーゲル(収容所)に入れられた。そこは丸太小屋で、通路の両側に板を並べた二段ベッドがあった。私たちを待ち受けていたのは、人間の血に飢えた南京虫の大群だった。シベリアの10月はすでに冬、真冬になるとマイナス30度になった。抑留された日本兵は60万人、最初の冬で6万人が死んだ。支給される食糧は質量ともに劣悪だった。

 二年目、車道建設が捕虜の仕事になり、つづいて鉄道建設が課された。シベリアの夏はブヨの大群が襲う。

 三年目、捕虜収容所のなかの日本軍将兵の階級が無くなり、新たなリーダーが選ばれて、運営に当たるようになった。私は大学でロシア語もいくらか学んでいたので、通訳の仕事もやることになった。日本の肉親への手紙も出せるようになって、収容所の空気が明るくなってきた。

 四年目、別の収容所に移った。その5月、帰国命令が出た。日本人捕虜はほとんど全員、日本に帰ることになった。帰国列車がナホトカに出発したのは9月4日だった。初雪がチラついていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな卒業式があった 真佐子さんの回想

 

 

 

 「夕映えのなかに」を読んでくれた真佐子さんが、長い感想文を送ってきてくれた。これほど長い感想文を書いてくれたということは、それだけあの頃の体験が強烈だったからだろうと思う。彼女は、矢田南中学の一期生だった。

 感想文の一部分をここに載せておきたい。ここに出てくる斎藤先生は、今はもう他界されている。真佐子さんの担任が斎藤先生だった。50数年前の、記憶の中に残る世界。

 

 

        ☆     ☆    ☆

 

 私が矢田中学校一年生の時、クラス担任は斎藤弥彦先生でした。斎藤先生は私に大きな影響を与えました。社会を認識する力や、人間として大切なことは何かを考えることを学んだように思います。クラスで問題が起きると、遅くまでクラスで話し合いました。初め発言する人は少数でしたが、次第に数を増していき、私はそのクラスで鍛えられて、発言するようになっていきました。上級生からクラスの子が暴力を受けたことがあった時は、クラスで、その上級生に話し合いを申し込み、教室に来てもらって話し合ったこともあります。

 斎藤先生の授業には気迫がこもっていました。先生は、「自分は軍国少年で、満州の建国大学で学んだ」とおっしゃっていました。シベリアに四年間抑留されていたこと、敗戦を機にこれまで自分が正しいと信じていたことが間違っていたと気づいたこと、などを話してくださいました。先生は、「弱い者の立場に立つ」、それを信念にされていました。

 部落解放運動の結果、矢田南中学が生まれ、私は矢田南中学の一期生となり、生徒会役員に立候補して副会長になりました。生徒会の顧問は吉田先生でした。私たちは、生徒自らが運営していく、生徒自治をめざしました。最初取り組んだのは、男子生徒の頭髪の問題でした。当時男子生徒の頭は丸刈りというのがきまりになっていたのです。矢田南中の先生たちは、「校則は、白紙から出発する」という方針を掲げていました。動き出した生徒は、「なぜ丸刈りにしないといけないのか」という声を上げました。生徒会で討議を始め、「そもそも頭髪は自由なのではないか」という結論になって、生徒全員の投票の結果、「頭髪自由化」の結果を出しました。

 続いて制服・制帽、校歌、卒業式などをテーマに生徒会と教員はそれぞれで討議を始めました。そういう取り組みが自由にできたのは、生徒の自主性を重んじ、生徒自らが創造的に生きることができるように支えてくれる教師集団があったからでした。

 三年生の三学期、斎藤先生は大きなテーマを生徒に投げかけました。将来、ムラの子は部落差別を背負って生きることになるだろう。在日コリアンの子は、民族差別を背負って、生きていくことになるだろう。では今、何をなすべきか。教室の窓から、暗い冬空が見えました。アイデンティティにかかわる話は重い。教室に重圧感がただよいました。そうして始まったのが、ムラの子は、受けてきた差別の生い立ちをクラスの中で語り、在日コリアンの生徒は、自らの本名をクラスの中で宣言するという、「部落民宣言」と「本名宣言」という取り組みでした。重い口を開き、未来に向けて生きていく自らの原点を明らかにする。それは、差別に負けない自己を確立していこう、それをみんなで支え合っていこう、とする取り組みでした。

 各クラスは長い時間をかけて話し合い、積み上げてきた想いを発表しました。それが第一回卒業式の柱となったのです。三年生徒はクラスごとに卒業式の演壇に並び、自らの力で、一人一人、自分の宣言をして巣立っていく卒業式を実現したのでした。長い時間をかけて話し合い、積み上げてきた私たちの道程、それが矢田南中学一期生の出発でした。

 

 私は卒業して、教員になりました。あの時を振り返ってみると、親と教師と生徒が一緒になって,新しい学校を創ろうとした試みは素晴らしかったと思います。そこで思うのは、「生きる力」としての「学力」です。子どもたちは、もっともっと分かりたい、できるようになりたいと思っています。「できない」と言われている子に学力をつけていく、可能性を引き出し、力を引き出していく、それは教師の使命だと思います。使命感と、自分や家族の生活とのせめぎあい、本当に重い仕事なのだと、体験から思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母校の卒業生へのエール

 

 

 私は先日、卒業式をひかえた大阪府立K高校の、校長と教職員、そして卒業生のみなさんに、下記のような手紙を送った。一昨年出版した私の著書「夕映えのなかに」に、私の高校時代を30ページにわたって書いたことから、70年前の私の高校時代の、知られていない事実を知ってもらい、エールとしたいと思ったからだった。

       ☆     ☆     ☆    

 「K高校考古学研究クラブ」、そこで三年間、私は研究活動をしました。考古学研究のような部活動は全国でも稀有な存在です。考古学クラブは、木造校舎の一階に部室を持っていて、そこには先輩たちが発掘した出土品が大量に陳列され、割れた土器を、部員たちが修復技術を学んで、接着していました。

 入部した私に上級生が話してくれました。

 「戦前、南河内には男子の旧制T中学校と、女子のT高等女学校があった。敗戦とともに学制が変わって、男女共学制になり、両校の生徒はそれぞれクジ引きで二分され、男子生徒と女子生徒が半数ずつ入れ替わって、男女共学のT高校とK高校が誕生した。考古学クラブは、旧制の中学に創設されていた部だったが、考古学部の顧問の教員がK高校に転勤異動したため、考古学研究クラブはK高校の部活動になったんだよ。」

 そういう話でした。

 それからK高校考古学クラブへは、旧制中学時代の考古学部卒業生と新制になってからの卒業生が度々やってきて、研究活動を指導してくれるようになりました。その中に大阪大学から神戸商船大学の考古学教授となった北野耕平さんがいました。耕平さんは、「縄文式土器の模様をどうしたらつくれるか」と言って、粘土を持ってきて部員にやらせました。けれど、どうしてもそのような縄目模様ができません。耕平さんは、「紐をころがすんだよ」と言って、やってみせてくれました。なるほど、粘土に見事な縄文ができました。

 河内の古墳の発掘調査があると、私たちのクラブに声がかかり、部員たちは発掘作業に加わりました。出土した土器、石器のいくつかは高校に展示保存しました。見事な壺や、円筒埴輪もありました。私も土師ノ里の古墳が道路建設で壊される時、発掘調査に参加しました。

 南河内は古代遺跡の宝庫です。古市古墳群があり、「近つ飛鳥」があります。私は河内野を歩き回り、ブドウ畑でやじりを発見したこともありました。

 驚くことに、考古学クラブは、戦後、新進気鋭の研究者によってつくられた「古代学研究会」にも加盟していたのです。「古代学研究会」は、戦前の歴史研究が、皇国史観によってゆがめられていたことから、国家権力に左右されない、事実に基づく研究を行うことを誓っていました。私たち部員は、その研究会のフィールドワークにも参加しました。枚方百済の遺跡を探訪した時のことです。昼食となり、五人のK高校部員は野原に腰を下ろして持参の弁当を食べていました。そこへ、「うまそうだな」と言いながら現れ、にこやかに遺跡の話をしてくださったのがⅠ 高校教員の森浩一先生でした。森先生は、気鋭の学者で、後に同志社大学教授となって雑誌「古代学研究」を発刊され、南方熊楠賞を受賞されています。森先生は、古代朝鮮と日本との深いつながりを話してくださいました。

 考古学部は橿原考古学研究所長の末永雅夫博士とも親しくなりました。先輩たちは、狭山にあった先生の家に行って、ご飯をごちそうになったりしていました。

 私は、朝鮮や中国から海を渡ってきたたくさんの渡来人が難波の港から上陸し、河内の「近つ飛鳥」や大和の「遠つ飛鳥」に向かって移動した道を調べて、大和の「飛鳥」まで一日で歩くことが可能だと分りました。また日本海側に上陸し、琵琶湖を経て飛鳥に至るルートも調べました。移動する渡来人の群れを想像すると、胸は高鳴りました。たくさんの渡来人と土着の倭の人とは協同して、古代の日本の国家と文化を創っていったのです。

 高校時代、私に大きな影響を与えたものがもう一つあります。山岳部があったのです。顧問の先生は日本山岳会の登山家でした。先生は夏休みに生徒を連れて北アルプスに登りました。その体験が私の人生を貫く、探検と登山、自然探究へつながっていきました。

 七十年前の高校時代、当時の自分の胸にあった、憧憬、プライド、悩み、葛藤、コンプレックス、友情‥‥、それを私は著書「夕映えのなかに」に書きました。

 歴史を知ることは、何らかの生きる力となると、私は思います。

 戦後4年目に出版された書、イギリスのパブリックスクール留学時代を池田潔が書いた名著「自由と規律」を、私は学生時代に読んで深く感動したことを覚えています。そのなかの、「握りしめたこぶしの親指の爪が青く掌に食い込むまで、母校の勝利を希う気持ちは強い。ただ彼らはこの感情を内におさえ、敵味方の立場を越えた拍手によってのみ、その評価を表現する」という文は私の心に深く残っています。

 高齢老躯の卒業生からこの手紙を、卒業していくみなさんと在校生のみなさんへ、エールとして贈ります。胸張って、新しい人生へ向かってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

滅びゆく野の自然

 

    今朝起きたら雪がかなり積もっていた。暦は三月に入った。

もう春だ。春の歌が頭に浮かぶ。まだ風は冷たいし、野のベンチでしばらく歌えない。温かくなったら、ベンチに座って、アルプスを眺めながら歌を歌おう。

    明治期から学校で教わり、子どもたちに歌いつがれてきた歌は、多く自然が主題になっている。だがその自然はすっかり変わってしまった。

 

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春は早うから 川辺の葦に

蟹が店出し 床屋でござる

チョッキンチョッキン チョッキンナ  (あわて床屋 大正8年作)

 

     どこかで春が 生まれてる

     どこかで 水が流れ出す

     どこかで ヒバリが鳴いている

     どこかで 芽の出る 音がする 

     山の三月 こち(東風)吹いて

     どこかで春が 生まれてる   (大正12年作)

 

春の小川はさらさら行くよ 

エビやメダカやコブナの群れに

今日も一日 ひなたで泳ぎ 

遊べ遊べと ささやきながら   (大正元年作)

 

      チョウチョ チョウチョ 菜の葉にとまれ

      菜の葉に飽いたら 桜にとまれ

      桜の花の 花から花へ

      止まれよ 遊べ 遊べよ 止まれ

 

      起きよ 起きよ ねぐらのスズメ

      朝日の光の さし来ぬ先に

      ねぐらを出でて こずえに止まり

      遊べよ スズメ 歌えよ スズメ  (明治14年作詞 原曲スペイン)

 

菜の花畑に 入日うすれ 見渡す山の端 かすみ深し

春風そよ吹く 空を見れば 夕月かかりて におい淡し

里わのほかげも 森の色も 田なかの小道を たどる人も

蛙の鳴く音も 鐘の音も さながらかすめる おぼろ月夜    (大正3年作)

 

 

    学校で習う歌は時代の精神を現わす。昭和20年、敗戦日本で生まれた歌は「めだかの学校」。日本の学校軍国主義教育から、民主主義教育に転換した。

 

 めだかの学校は 川の中 

 そっとのぞいて 見てごらん

 そっとのぞいて 見てごらん 

 みんなでお遊戯しているよ

 

 めだかの学校の めだかたち 

 だれが生徒か先生か

 だれが生徒か先生か 

 みんなで元気に 遊んでる

 

    めだかの学校は うれしそう 

 水に流れて つーいつい

    水に流れて つーいつい 

 みんながそろって つーいつい

 

 そして現代。経済発展と反比例して、野の川のメダカやコブナ、ザリガニも、水田の無数の小動物も、草原のバッタやカマキリやトカゲ、昆虫たちもほとんど滅びてしまった。あんなにも、あんなにも群れていた生き物たち、みんないなくなった。

 小動物たちの歌も滅びてしまうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

秘めた心の、核心から立ち上がれ!

 

    寒さが厳しい。庭に来る小鳥たちも寒いだろう。雪が積もると、食べ物を見つけられない。「お腹が空いたよ」、ひさしの下の雪のない所に降りて、落ち葉をはねとばして餌になるものを探している。小箱に、小鳥の餌、植物の種や野菜くずを置いてやると、スズメたちがやってきて、たちまち食べつくしてしまう。ついばんでは、頭をあげ、周囲を見わたし、また頭を下げてついばむ。スズメの身体は、こんなに小さいのか、子どもの頃からずっと身近で見続けていたのに、へえ、小さいねえ、新たに発見したかのように、思う。手のひらに入るほどだ。ツグミは一羽でやってきて、落ち葉をくちばしで跳ね飛ばして、食べ物を探している、

    あれはカシラダカかなあ、アオジかなあ、スズメと同じぐらいの身体だ。植え込みの間をピョンピョン跳ねながら、落ち葉を飛ばして餌を見つけようとしている。ムクドリも見るが、おおきな群れをつくるが、この冬は、単独でしか見ない。安曇野も、野鳥が減っているように思う。田畑そのものが、小鳥たちを養う餌場になっていない。

 この地球、この世界、あまりにもひどすぎる。

    ウクライナの野に、小鳥たちは住めるか。ガザに住めるか。人間どものために、野生生物は、とばっちりを受け、生きる場所を失っている。「とばっちり」なんていうレベルではない。急速な勢いで、地球を滅ぼしている。権力妄想の政治家たちは、おのれの利益か、おのれの国の統治しか考えていない。

 トルストイよ、ガルシンよ、ドストエフスキーよ,、ツルゲーネフよ!

 冥界から叫べ!

 ロシアの音楽家よ、芸術家よ、

 ロシアを憂える魂よ、立ち上がれ!

 

 

 

 

 

 

 

親愛なるアレクセイ・ナワリヌイ氏へ

 

 

 

 インターネットに、こんな署名活動が送られてきた。世界的な活動を展開するアヴァーズからだ。

 

     ☆      ☆     ☆

 

親愛なるアレクセイ・ナワリヌイ氏あなたの命は奪われました。 今日、大勢の人々があなたの家族と共に涙を流し、あなたの死を悼んでいます。独裁者がもっとも恐れているのは、あなたの勇気。独裁国家に立ち向かう強さを人々に与えるあなたの勇気を、すべての独裁者はもっとも恐れているのです。それが故に、毒殺未遂、投獄、死という高い代償を、あなたは払わなければなりませんでした。激化するウクライナや中東の戦闘を、世界は固唾を呑んで見守っています。そんな暗い状況に直面しても失われない力を、あなたは私たちに与えてくれました。私たちは、民主主義が損なわれるのを傍観したりしません。安らかにお眠りください。世界中の皆より

 

           独裁政権に立ち向かう - Avaaz

 

          ☆      ☆     ☆

 

 ぼくも、この署名に賛同した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消えていく「ずら言葉」

 

 

 信州安曇野に移り住んで、この四月で18年になる。信濃の山に登り始めたのが18歳の時だったから、信濃は僕の人生の大半を占める。

 大学山岳部の頃、夜行の蒸気機関車木曽路を過ぎ、松本平に入ると夜が明ける。窓を開け、ひんやりと澄んだ外気を吸い込むときの心の高鳴り、窓から見る山々、村々、山へのあこがれがどっと胸に湧き起った。

 あの頃はまだ、信濃弁が残っていた。親しくなった地元の人の地の言葉は、何とも言えず好ましかった。僕らはその言葉を「ずら言葉」と呼んでいた。

 臼井吉見の小説「安曇野」から、その「ずら言葉」を抽出してみる。

 

「あねさまあ、とうとう雪になりましたに。おやまあ、どうしてこんねにきれいにできるもんずら」

「だいぶ炉火が呼んでござるから、おっつけ木下さんも見えるずら」

「良さ、眠いずらに、いろり番はおきよにまかせて、すこし休んだら?」

 

 岡田喜秋は、大糸線の東側の過疎地、善光寺につながる旧街道を好んで歩いた。その随筆に、こんな信濃弁が出てくる。

「ちょっと休んでいきまっしょ」

「春になれば、タラの芽のテンプラ、ごちそうしまっしょ」

「大正時代までは、街道を旅するマユの仲買人が泊まってくれたずら。鉄道できてから、さっぱりだんね。」

「外を見なっしゃれ、ほらや、景色がちごうとるのし」

「むかしは街道をたくさんの馬を連れた馬子が通ったずら」

「街道にたくさん供養塔があるのし。死んだ馬や馬子の供養塔ずら」

「ここはもう陸の孤島ずらね。」

 

 ぼくが学生の頃はまだ耳にした信濃弁、今はもうまったく聞かない。ぼくの故郷の、大阪河内弁も変わり果てた。

 今日、九州の佐賀弁か博多弁かを語る、漁師でありながら奥さんに習ってピアノを練習し、ラ・カンパネラを弾く人のドキュメンとを見た。何ともその人の方言の生き生きとした香りがすばらしかった。