小説、ほぼ完成

 

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 八年前から書いてきた小説が、ほぼ完成した。タイトルは初め「魂呼ばふ山河」と名付けていたが、変更しようかと思っている。今の候補名は「夕映えのなかに」という、シューベルト作曲、カール・ラッペ作詞の歌曲の名なんだが、それは小説最後に現れるシーンに由来する。この曲は、今も頭の中でバリトン歌手が歌っている。

 さて、どうなるかなあ、今検討中。

 第一次校正も済み、出版社のほうで、ページ作成をしてくれているが、上巻、下巻で千ページを超え、二冊になる。

 自分の人生を軸にした小説だが、古代史につながる現代世界、日本の戦前から現代にいたる教育と環境、社会の変化、人間をテーマに描いた。

 

 さて、そこでの問題は、出版業界も今や経営が苦しい。本がなかなか売れない。

 結局、クラウドファンディングの助けにすがろうと思っている。うまくいくかどうか。やってみよう。応援してくれる教え子たちがいる。「教え子」と言っても、彼らの年齢は五十、六十、七十代、ぼくのほうが「教えられる人」になっている。

 助けてくれ、頼む――。

菊芋

 

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菊芋が、たくさん穫れた。毎日、少しずつ食べている。整腸作用があり、血糖値を下げる。心筋梗塞脳梗塞、糖尿病の予防にもなる、ガンにも効果があると言う。「名医の太鼓判」とも言われる芋だ。

我が家では、電子レンジでチンをして、みそだれをつけて、食べている。フライもいい。

地元物産センターでも売っているが、地元の人はあまり食べていない。

 

その菊芋の詩を発見した。宮沢賢治全集にあった。

 

    菊芋

八月の末までは

何の収入もないときめた

この荒れ畑の切り返しから

今日はどうしてこの収穫だ

三十キロでも利かないような

うすい黄色のこの菊芋

槻の向こうに日が落ちて

 つめたい風は西から吹き

遠くで叫ぶ子どももある

あしたもきっとこれだけとれ

あさってだってとれるだろう

エルサレムアーティチョークとさえ言えば

大ひまわりの あのいかめしい形が浮かび

トビナムボーとかトビナムブルーとそう言えば

イヌリンや果糖を含む

この塊根を暗示する

けれどもここらあたりでは

誰も 一人も 買い手がない

結局おれが

焼いたり 漬けたり

毎日毎日食うだけだ

おれがほんものの清教徒なら

あるいは佐藤正五郎氏のように

百パーセントのおさむらいなら

これこそ天の恵みと考え

町あたりから借金なんぞ一文もせず

八月までは

黙ってこれを食うはずだ

ただしそれでは必ず参る

参って死んでしまっても

動機説では成功と言う

ところがおれのこのごろは

動機や何かの善よりも

行程をこそ重しとする

そこでやっぱり本なども売り

ぼろぼろ借金などもして

あいまいな暮らしようをするというのは

すでに魔道というものだろう

とにかく汗でがたがた寒い

道具を集めて

早く帰って火を焚こう

 

 

  「槻」はケヤキの古名だ。

 

 

 

 

 

 

モルゲンロート

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 痛む膝も、両手のストックをついて、膝をあげるように大股で歩くと、いくらか痛みは和らぐ。

 大股は運動によい。意識しないとすぐに小股になる。

 メイちゃんに会う。おじちゃんと、おばちゃんが、毎日メイちゃんを連れて長距離の散歩をしておられる。白のラブラドール。

その人とは、「メイちゃんのおじちゃん」、この呼び方で、何年も、出会えばあいさつを交わしてきた。

「名前を一度も聞いていませんでした。お名前は?」

 初めて名前を聞き、自己紹介した。

「犬を連れた人と親しくなりますが、名前を聞かないまま、ハナちゃんのおばさん、カイトのおばさん、オミソちゃんのおばさん、リキちゃんのおじさん、と呼んでましたよ。」

「そうですねえ、犬の友だち、そうですねえ。」

 

 昨日は、夕方散歩の距離を延ばした。今朝は、濃霧で見通し悪い。距離を減らした。

 

 

リキも死んだ

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枯れた黒豆の株を、竹刀でパンパンたたいていた。

サヤから、黒豆がパラパラと出てくる。

今は亡き、木村重起さんが、旧制中学時代に使っていた竹刀。持ち手に巻かれた皮には、名前がまだはっきりと残っている。

 21年前、奈良の御所市、金剛山の麓の名柄の村で、木村さんは、

 「この家にあるものは、すべてあげます。自由に使ってください。」

 そう言って、築80年のもう廃屋に近くなった家をただで貸してもらったのだった。

 

 今日はいい天気だ。竹刀を使って、豆の株をたたくと、おもしろいように豆がはじけだす。

 道路から、声が聞こえた。メイちゃんのおじさんと、おばさんが、立ち止まってこちらを見ておられる。

 「いやあ、こんにちは。豆たたきしています。」

 メイちゃんは、白のラブラドール。人懐こいメイは、しきりにこちらに来ようとリードを引っ張っている。かわいい。

 おじさんが言った。

 「矢口さんのリキが亡くなりましたよ。」

 「えっ、リキ?」

 「矢口さんのゴールデンのリキですよ、。」

 「あーっ、リキが亡くなりました? そういえば、この頃姿を見ませんでした。」

  犬は、十五、六歳前後で亡くなる。リキは、うちのランより若かったのに、逝ってしまったか。矢口さんの奥さん、おちこんでいるだろうな。矢口さんの前の犬が亡くなった時、奥さんは強いペットロスに憔悴しておられた。

 道端の立ち話。犬の話から、肺ガンの入院の話、常念登山の話と移っていった。

 

叩いて実を落とした黒豆、ここからあとは、豆とサヤや枝葉とを分離して、豆だけを分離する。全部手作業。風の強い日に、サヤなどを飛ばす分離作業だ。

 

共助の村づくり

 

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 居住地区の公民館報発行五十周年で、あなたも一筆、感想などを250字ほどで書いてほしいと依頼があり、この地区に来て16年、思いを書いて出した。

 

 「高齢者の一人暮らしが増加している。地域の子どもの、外での群れ遊びが完全に消滅した。若者、住民にも、いろんな形で孤独が進んでいる。孤立、断絶が進むと、地区活動も、前例踏襲になり、地域に対する新たなビジョンが出てこなくなる。この停滞から脱するにはどうしたらいいか。地区を共助の生きる、心の通い合うところにするには、市から下りてくる施策を待つのではなく、地区民の意見、オリジナルなアイデアを自由に出しあえる「場」を、まずつくることから始まるのではないか。」

 

 以上のようなことを書いた。

 これまで、私はいくつかアイデアを区に出してきた。

 

 ☆ 地区での「贈り合い」の仕組みをつくる。「あげます、ください、ゆずります」、タダで、ものによってはいくらか金額をつけ、使わなくなったものを贈り合う。

 ☆ 地区の公園に、子どもらが遊びにやってくるように、クワガタ、カブトムシ、チョウなどがやってくる木を植える。

 ☆ 地区の公民館を、放課後の子どもたちが勉強したり遊んだりする地区児童館にする。  

 ☆ 道端の要所要所にベンチを設置して、高齢者や、脚腰をいためている人が腰を下ろして休めるようにする。

 ☆ 庭の草取り、生垣の剪定ができない人を助ける活動を考える。

 ☆ 庭の草や生垣の剪定枝などは、地区のなかに堆肥場をつくって、堆肥にする。

 

 これらのうち、公園の植樹とベンチづくりは、了解や協力を得て、私が進めてきた。そのほかは、実現にもっていくことができていない。

 みんなが何を求めているのか、何を願っているのか、まずそれを出し合う場が欲しい。

 

からくり人形の贈り物

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 ハタヤンから突如贈り物がとどいた。

 箱を開けたら、おー、ハタヤンの「工房みもざ」の、「からくり細工」やあ。

 すごい、すごい、ハンドルを回せば、エベッサンが、タイを釣る。木工細工でよくもまあ、こんなに精巧に作ったものだ。高さ二十センチほど、ひょうたんに付いたハンドルを回すと、舟に乗ったエベッサンの首が左右に動き、釣り竿を持った右手の腕が上がったり下がったり、波間のタイがぴょこぴょこはねる。

 からくり背後の木組みの構造を観察しながら、ハンドルを回す。

 うーん、実に微妙な精巧な細工が施されている。これを考えて作るには、いったいどれだけの時間を要しただろう。構造を考えるにも、仕組みを手作りするにも、どれほどの時間を要しただろう、感に堪えない。

 ほとんどが木の細工、それに色を塗っている。

 

 ぼくは飽きずにくるくる回す。

 

 手紙が同封されていた。

 「先日ブログを拝見しました。驚きましたがヨッサンだったら大丈夫だと思っています。なにしろカモシカおじさんですからね。

 大作の出版の前祝いとお見舞いを兼ねて、

福が来るように『えべっさん』のからくり人形を送らせていただきました。

 ハンドルを回せば回すほど、福がドッとやってきますので、ご準備を!」

 

 ありがとう、ありがとう。ハタヤン。

 1980年代、大阪市立加美中学校教員時代、教育を模索しながら共に生きた若き仲間。今はもうハタヤンも悠々自適の「からくり工房」の仙人となって、すてきな奥さんと暮らしている。

ブログを読んでくれた人から

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かつての「創造学園」の教え子から、ブログ訪問のコメントをいただき、

とても強いなつかしさを覚えた。誰なんだろう? 

けれども、あのころは、個別指導をしていたし、たくさんの生徒が日を措いて学校にやってくるものだから、名前を聞いても、思い出すことができるかどうか、顔を思い浮かべるなんて、とてもできないだろう。

けれど、言葉を交わしたい、「コメント」を交わしたい。

このブログを始めたころ、もう十数年前だが、このブログを発見して訪問してくれた教え子がいた。その生徒は、僕が指導していた淀川中学登山部の一員で、かわいい少年だったが、もう還暦も近くになっていた。1960年代、その頃の登山部員は三十人ほどいて、みんないっちょまえのキスリングザックを背負い、大台、大峰山脈信濃御嶽山などにも登っていた。

昨日は、1980年代の、加美中学校時代の同僚からメールをいただいた。彼は、今はもう悠々自適で、工房をつくって夫婦で仲良く創作を楽しんでいる様子がうかがえて、楽しい。ぼくが肺がんの手術をしたというこのブログを読んで、驚いてメールをくれた。

ヨッサン、数日前にブログを拝見しました。驚きしました。職員室では禁煙だ〜!とドアに貼り紙をしていた事を思い出しました。いつまでもヨッサンパワーでいてくださいね。

そういうことがあったのか、ぼくはすっかり忘れている。