「ひきこもりの国」 <1>

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 アメリカの研究家、マイケル・ジーレンジカーが、日本に来て調査研究した報告書「ひきこもりの国」(光文社)は2007年に出版された。その頃、すでに社会的引きこもりは100万人と推定されていた。

 それ以後数字は変わらず、現在若手の引きこもりは54万、中高年の引きこもりは61万人いるという。

 マイケル・ジーレンジカーは、日本で引きこもりの人たちに直接会って、その声を聞き、社会の実態を観察研究した。彼は、その著者の中で研究の動機を書いている。

 「古代からの古い歴史を持つ誇り高いこの国の人びとをおさえつけ、内発的な変化を妨げてきた異様なまでの社会的、文化的、精神的な制約について解き明かすことにねらいをおく。」

 「自室にとじこもり、外の世界にほとんど何の慰めも安らぎも見出せずにいる『引きこもり』の実情を検証する。それは現代日本社会の行き詰まりを解明するためのヒントになる。」

 「過去60年間、日本の守護者であるアメリカが、実は日本が苦しむ重度の適応障害の一因になっているという点、それなのに日本はアメリカのやり方を許しつづけているという点についても検討する。」

 「日本人はよく日本社会をアヒルの池にたとえる。鏡のように静かで滑らかな水面にのんびりと浮かぶアヒルたちは、実は群れの中の自分の居場所を保つために水中で必死に足をばたつかせている。」

 「しかし日本人は、現実から目を背けて生きていくわけにはいかない。彼らの隠された深奥部を探り、鏡のようになめらかな社会の外観を打ち砕くことが日本再生への決定的な第一歩であることを示したい。」

 「何十人もの孤独な若者たちの話を聞き、彼らがおかれている窮状について耳を傾けてみて、引きこもりという行動は、脱工業化が進んだ同一性重視社会に対する異議申し立てなのだ。」

 「彼らは日本の経済的、精神的危機の深刻さを、官僚や政治家たちよりもはるかに直感的に感じているようだ。」

              つづく

 

 

 

 

 

ローマ教皇の祈り

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レヴィナスの「困難な自由」という書がある。この本を内田樹が必読書として推薦している。こんな一節がある。

 

 「あなた方がもし善行を施せば、ほうびを与え、悪事を働けば罰を与える、そのような勧善懲悪のロジックで動くシンプルな神をこれまで拝んでいたのだとすれば、それは幼児の信仰である。

 人間が人間に対して犯した罪は、人間が償うしかない。

 アウシュビッツは、人間が人間に対して犯した罪であり、責任はすべて人間にある。

 天上的な介入がなされて、人間の犯した非道を神が正すということは、人間が幼児であると認めることである。

 われわれがめざすのは、幼児の宗教ではなく、成人の宗教である。

 もし造物主に、その名にふさわしいだけの威徳があるとすれば、それは『神の助力なしで、自力で地上に平和と秩序を築き得る被造物』を創造したことにある。それこそ創造の奇跡である。

 神の助力なしに、地上に正義を実現できるほどに霊的に成熟した人間を創造されたこと以上に神の威大さを証明する事実があるだろうか。」

 

 第二次世界大戦後、フランスのユダヤ教の共同体が危機に瀕した。レヴィナスを読んだ若者たちは戦後の虚無的な状況を脱して、再びユダヤ教に回帰し、ユダヤ人社会を瓦解から救った。

 

 今訪日のローマ教皇の言葉には、これに通じるものを感じる。

 神の助力なしに、地上に正義を実現できるほどに霊的に成熟した人間であるならば、世界の全生物を何十度も滅ぼすことの出来る核兵器を全廃することも、戦争を放棄することも、弱肉強食の社会を改変することも、地球環境を守ることもできるはずである。

 ローマ教皇訪日のかげに、それを実現させた若者から被爆者を含む人びとの尽力があった。そこに希望を感じる。

山の光

 

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 午前5時過ぎからランと散歩に出た。まだ暗いが、うっすら明るくなってきている。

 山の方へ歩いた。常念山脈が西の空に黒く横たわっている。別荘だろうか住宅だろうか、前衛峰のかなり上の方に街灯の明かりらしき光が見える。

 カラスがねぐらから出てきて、二羽飛び始めた。

 その時だった。蝶ガ岳にちらっと光るものが眼に飛び込んだ。かすかな光。光はすぐに見えなくなった。眼の錯覚かな。

 蝶ガ岳から常念岳への稜線を注視して歩いていく。と、またかすかな光が稜線に見え、すぐに消えた。位置はほんのちょっと北へ移っているように思える。これはてっきり登山者だ。ヘッドランプを点けて稜線を常念に向かって歩いているんだ。

 稜線から眼を放さないで、道を歩いていった。三度目の光、四度目の光、かすかにかすかに移動している。山の沢筋には雪が積もっていて、白く見える。

 山では出発は早い。四時とか五時とかに出発する。蝶ガ岳の小屋はまだ開いているのだろうか。蝶ガ岳でキャンプして常念から燕岳へ縦走する人だろうか。

 辺りが次第に明るくなった。それよりひと足早く山頂は明ける。朝日が稜線に当たりだした。

 もう光は見えない。

 

 

あの少年

写真・図版

  ローマ教皇が今日来日、広島、長崎を訪問され、原爆被災地で祈りを捧げられるという。長崎で撮影された、アメリカ軍のカメラマンのとらえたこの一枚を見て、ローマ教皇は戦争の本質をとらえられた。

 遺体焼き場の前に立ち、死んだ弟をおんぶしている少年の眼とひきしめた唇。靴もなく裸足のまま。

 弟をおんぶする時、一人でやれたのだろうか。おんぶひもを弟の背中に回し、ひもを自分の胸のところで交差させ、そして後ろに持っていって、弟のお尻の下に回し、また自分の前に持ってきて結ぶ。その時、誰かが支えたのだろうか。

 この少年はその後、どうなったのだろう。

 そのころぼくもこの少年と同じ年齢だった。広島、長崎につづいて、大阪にも原爆が落とされたていたら‥‥、と想像する。大阪大空襲はあの年、3月から始まって、日を置きながら8月15日の朝まで続いたのだ。ぼくは3月11日の空襲で空を焦がして燃える大阪を目の間に見た。そして疎開をした。

 広島、長崎の原爆に至るまでに、東京も焼け野原になり、全国の都市が空襲の惨禍に見舞われた。日本の息の根を止める原爆は、戦後のアメリカの世界戦略を考えた打算的計略だった。

 強大な軍事力をもてば、「敵」は「虫けら」になる。日本軍のやったことも同じだ。一万メートルの上空の爆撃機から見れば、下界の「敵地」の人間はウイルスのごとし。核兵器の性能が進化し、ボタン一つで「敵」に向けてミサイルが飛ぶ。地球に農薬を撒くように、根こそぎ命を滅ぼす。

 人間の地獄、今も目前にある。

 

 

 

ベルリンのもったいない精神

 

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 小川糸が「針と糸」というエッセイ集を出している。そのなかに、「ベルリンのもったいない精神」という短編がある。

 

 「ベルリンでは、まだ使えるものをゴミとして処分することはありえない。自分にとっては不要になったものでも、誰か他の人にとっては使えるものかもしれないので、そういうものが出たときは、家の前に置いておくと、たいてい目にした誰かが家に持ち帰っていく。私も、あまりに重くて使えないフライパンなどを路上に置いてみたのだが、どれも数時間のうちになくなっていた。このシステムは、自分にとっても相手にとっても本当に便利で楽である。

 日本だと、自分が不要になったものは、お金を払って引き取りにきてもらうシステムだが、東京のマンションを見ていても、まだまだ使えそうなものがゴミとして出されていて、もったいなあと感じる。ベルリンのシステムが日本にも広まれば、ゴミの量を随分減らせるだろうと思うけれど、それはやっぱり難しいのかもしれない。ベルリンでは、高いお金を払って新しいものを買わなくても、いただきものや拾ったもので十分やりくりすることが可能だ。再利用の仕方も独特で、自分の見立てやアイデアで、本来の使い方以外の使い方を上手にやっている。通りがかったカフェでは、小ぶりの古いバスタブに土を入れて、花壇にしていた。思わずくすっと笑ってしまう面白い使い方を見かける。

 大戦末期、ベルリンではひどい地上戦が繰り広げられた。町は廃墟と化し、瓦礫の山に覆われた。戦地に赴いていた男性に代わり、女性たちが瓦礫の山からまだ使えるものを拾い集めて、町の復興に尽力したという。ベルリンのもったいない精神はそんな過去に由来しているのかもしれない。」

 

 これを読んで、使い捨て文明が経済発展につながると錯覚している日本では、ここまで徹底して意識を共有できないのかもしれないと思う。もう要らなくなって、家に眠っているものを必要な人に再利用してもらう活動を起こそうと、六年ほど前居住区で呼びかけをしてみたが、私の呼びかけが不徹底だったために、失敗した。全国的に見ればそういう実践を工夫してやっているところがあると思う。

 

子どもの危機

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 昨年の文科省調査では、中学生の50%が視力1.0以下。

 今年の文科省調査では、公立小中学校の通常学級に、支援の必要な子が6.5%いるという。読み書き障害の多くは、聴覚に問題を持っているという。

 人間が本来持っている能力が、引き出されず、鍛えられず、逆に劣化させられている子が増加しているのだ。

 調査できない感性とか心のなかとかは、どうなっているのか分からない、それが現象に現われてくるときがある。事故、事件、災害のときもだ。

 3.11の東日本大震災津波襲来のとき、大川小学校では、

自力で判断して逃げた子と、自力で判断して行動できなかった子とで、生死が分かれた。

 危機を感知する予知能力と危機を避ける行動能力は、子ども時代の生き方が左右する。

 飢えた時、食べられるものと食べていけないものを知っているか。食べられるものはどうしたら手に入るか、それを考えられるか。そして行動に移せるか。

 友と遊び、自然を体感し、出来ないことを出来るように創意工夫をする、そういう体験の日々を送る。それは子ども時代の無限の楽しみなのだ。

  何度も何度も失敗する。出来なかったことが出来るようになる。

 無かったものを作り上げる。子どもは楽しくなり、夢はふくらむ。

 

 そして、何よりも友。

 子どもは友だちを必要とする。子どもは友だちを求める。

 友だちを呼ぶ。

 子どもは、友だちの汗の匂いを知っている。

 「あしたまた遊ぼうな」、夕方ひびく声。

 

 「友だちは いいな」の大合唱を聴いたのは、自由の森学園が埼玉飯能に開校して二年目だったか三年目だったか。中学部、高校部の生徒たちの発表会を参観に行ったときだった。全校生徒の大合唱は、講堂の床を響かせて大地から湧き上がる。胸が熱くなった。その合唱だけで、何かが分かった。

 

   友だちは いいな

   どんなときでも

   心と心が通じ合う

 

   友だちは いいな

   どんなときでも

   喜び悲しみ わかちあう

 

   友だちが みんな

   手をつないだら

   世界中みんな 友だちだ

 

   友だちは いいな いいなあ

 

 

 スウェーデンの冬は長く、夏は短い。スウェーデンでは、子どもも大人も夏の森に入って、森の精を体感する。そして一生に一度は森の樹にツリーハウスをつくって、そこに入り、森に溶け込むのだと。子どもの好きな基地づくりだ。

 森にはキノコもベリーも生っている。ジラジカもいる。

 今、日本の子どもは、

太陽や月がどのような軌跡を描いて空をゆくのか、眺めているだろうか。

 

野性を消滅した子どもの暮らし

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 今朝の新聞の声欄に、次のような投稿があった。要旨を書く。

 「最近の子どもの8割が近視で、10センチ離れたものを見るのも苦労する子どもがいるという。専門家は『国家的危機』と述べている。原因は、外遊びの減少だ。子どもから外遊びの機会を奪っているのは大人だ。かつてはあちこちに空き地があり、子どもらは自由に駆け廻っていた。今は、子どもを狙った事件や事故、いじめ、塾通い、宿題の負担などで子どもを屋内に閉じ込めざるを得ない。子どもたちがもっともっと外で遊べる環境を整えられないか。」

 この記事を目にしていた時、テレビで、発達障害の子どものことを報道していた。

 痛みを感じない子どもが出てきている。怪我をしても痛みを感じない。体の中に痛みがあって病気を知らせているはずなのに、痛みを感じないから重体化する。これが発達障害の一つだと分かった。痛さ、寒さ、暑さなど刺激を感じられない、これは危険を感知することができない発達障害だ。何らかの発達障害の子は10人に一人だという。

 子ども時代は、たっぷりと直接体験を積んで、体や心、感性を鍛え、感情を豊かにしていく時代だ。その体験、鍛錬の場が、遊びと自然と子ども社会なのだ。それらを現代社会は消滅させてしまった。子どもの発達障害は発育過程の重大な欠損に原因がある。

 今、学校から帰ってきて日が暮れるまでの時間帯に、また土曜日や日曜日に、街や村や野で遊ぶ子どもの姿が見かけられるか。皆無だ。どこに子どもが群れて遊ぶ声が聞こえるか、皆無だ。

 日頃の暮らしで、子どもはどんな自然に触れているか、どんな命に接触しているか、どんな野性体験をしているか、皆無だ。

 この恐るべき消滅。まさに危機ではないか。

 今の子どもは、家という箱の中、学校という箱の中、車という箱の中、塾という箱の中で子ども時代を消耗している。

 本来子どもは、大自然のなかで遊び、冒険し、探検し、観察し、採集し、獲物をつかまえ、数々の刺激を体感して、育つものだ。

 この虫は何だ?

 この小川、飛び越せるか?

 この木、登れるか?

 この実、食べられるか?

  

 自然災害がこれからもっと深刻になるだろう。自然破壊をしてきた人類に自然はその見返りを提供する。重大なその危機も感知しない人間が増えていく。