雑の思想と民主主義

 

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 高橋源一郎と辻真一の対談「雑の思想 世界の複雑さを愛するために」(大月書店)のなかに、こんな意見が出ている。

 高橋「いま、民主主義の問題がクローズアップされているけれど、民主主義とは、デモス(民衆)+クラシ―(統治)で、「民衆による統治」です。ギリシャの民主主義は、いまの民主主義とはニュアンスが違います。ものごとをどうやって決めるか、決める前にどれくらい話し合うか、それが重要です。役人も陪審員も、ギリシアはくじ引き+任期一年です。決める前に「話し合う」ことを何より重んじた。このギリシアの考え方はルソーに続く。ルソーは、根本的に全員考えが違うということを重視していた。共同体の構成員のみんなが違った考えを持っていると認める。要するに決まらない。ギリシアの場合、市民が三万~四万人いて、三万通り、四万通りの考え方がある。それを一つの意見に集約することがそもそも間違っているけれど、やらなければいけない。ではどうするかというと、三万通り四万通りの意見を、異なったままでシェアするのはどうかと考えた。ルソーの『社会契約論』はそこに重点を置いた。

 たとえば、党派をつくっちゃいけないと言っている。日本には今五つの党派があり、五通りの考えに分けていけばわかりやすいし、採決しやすい。けれど、そこにはもともとあった意見の多様性はなくなっている。代議制民主主義は決めやすく、わかりやすいが、本質的な欠点を持っている。ルソーが批判したのはそこです。五通りになったとたんに、民主主義は死ぬのだ、と。

 もともと「雑」だったものが五つにまとめられた瞬間に、民主主義のもっとも重要な思想的な意味が死ぬのだというのがルソーの考え方で、彼は代議制民主主義は奴隷制と同じだと、徹底的に批判しています。

 民主主義の根本は、個人個人、全体の意見の中で、自分の意見を見つめる時間を保障している。それがディスカッション、熟議の時間です。『雑』は『雑』のままでよい。それを保障しているのが民主主義だと。

 代議制民主主義はというシステムは統治の方法であり、議案を選択するための方法に過ぎない。民主主義はデモス(民衆)とクラシ―(統治)ですが、民衆と統治のあいだには深い裂け目が走っている、矛盾を抱えたまま制度をつくってよいのか、というのがルソー以来の難問で、まだ解決されていません。 

 

 辻真一は、本末転倒した社会の在り方からの転換を目指す運動、スローライフの運動をしている。

 「今ぼくたちは、世界の価値観と自分たちのライフスタイルの大転換にむけてバスケットに放り込まれたものを一つ一つ見つめ直そうとしている。『雑』こそがキーワードなのだ。生態系における『雑草』、森林の『雑木』、農や食の『雑穀』のように、雑談、雑役、雑音、雑貨、雑務、雑学、雑誌、雑種、雑念などといった、雑なるモノやコトがなければ、ぼくたちの暮らしはずいぶんとさびしいものになるだろう。」

 

この本、考えさせられるところが多い。

 

理想を失わない

 

 

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 『ユートピアだより』は、ウィリアム・モリスが一八九〇年に発表したファンタジーで、ユートピアの実現は二百年後のロンドンだった。革命すでに成り、モリスが理想とする美しい野や川、安らぎの街や村、人々は嬉々として働き、芸術を楽しむ。人間疎外の文明、中央集権の権威主義は克服され、絶対的な安心感がある助けあいの世界が実現する。

 デザイナーだったモリスがなぜ社会について考え、行動するようになったのか。「僕らの社会主義」(国分功一郎・山崎亮 筑摩書房)でこんなことを述べている。

 今の日本は格差が目に見えて大きくなっている。現在の社会状況は19世紀に似通っている。そこで19世紀の社会問題に取り組んだ思想家たちの思想を研究すれば、僕らが直面している問題へのアクセスの仕方が見えてくるんじゃないか。

 フランスの思想家ルソーは、18世紀の旧体制のもと貧困の中で徒弟時代を過ごし、個人と集団の問題、孤独と連帯の問題に思想的にアタックした。その考えは今も生きている。

 モリスは、産業革命後のイギリス社会で日用品がひじょうに作りの雑なものになっていたことを嘆き、自ら工房を開いて芸術的価値の入り込む作品をつくった。機械で作った粗悪品を使っていてはダメだ、生活まで貧相になる、良質なものを使う生活を実現しなければならない、美しいものはつくった人が楽しみながら仕事した結果でなければならないと主張した。楽しく働いた結果としての美しい製品に囲まれた生活をなしとげよう。

 大正時代、モリスはよく読まれ、「芸術的社会主義」として受け入れられた。

 ロバート・オーエンは、10代で商店に奉公に出て、労働者の困窮を目撃する。成人して、 紡績工場の支配人となって、技術改良を進め、紡績工場の共同経営者となった。彼は労働者の生活改善やその子弟の教育に尽力し、工場に幼稚園をつくり、労働立法の制定に貢献した。 貧民階級救済のために協同主義社会の創設を提案したり、私財を投じアメリカに協同村を建設したが失敗に終わった。オーエンは地域社会全体を変えようとしたがうまくいかず、オーエンの弟子たちが徐々に成功を広げていった。オーエンの思想は、ナショナルトラスト設立に至る。それは日本にも入ってきて、環境保護や自然と歴史、文化の保護に実行されている。

 モリスと同時代、アメリカで、ソローが「森の生活 ウォールデン」を書いた。ものを持たないで、一人で森にすみ、美しい生活を楽しむ。日本でも多く読まれている。

 空想的社会主義者と言われながらも、理想を描いた先人がいた。理想を失わない、今のこの時代だからこそ重要なことだ。

はてなブログに切り替えました

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 一月末に突然「はてなダイアリー」がストップし、記事が書けなくなった。ヘルプで調べたら、二月末までに切り替えしなかったら、終わりになるという。さあて困った。ぼくはこういう技術に弱い。息子に相談すると、急いで「はてなブログ」に切り替えようということで、時間をかけてやってくれて、このブログの開設ができ、今までの車から電気自動車に乗り換えたみたいに、試行錯誤して記事を書き写真を張り付けている。すいすいとはやれず、これがたいへん疲れる。今日は、画面の上の右端のしるしをクリックしたら、「コメントが11時間前み来ている」という文字が出た。ばふぁんさんからのコメントだという。とろがブログのページのどこにもコメントが出ていない。コメントがどこに隠れているのかなと探したが見つからない。どうしようもない。これでまた疲れた。

 あーあ、新しい技術進歩になかなかついていけない。

デモクラシーの形骸化

 

 

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 小田は、阪神大震災の被災者として街の復興を考え、車がないと用がたせない都市は都市ではない、亡くなった人びとの記憶、そこに生きた人々の長い歴史を大切にしながら、麗しい街の復興をめざそうとした。神戸松南地区の住民は自分たちで「復興町づくり憲章(案)」をつくった。生き残った者の体験を掘り起こし、震災前の街の記憶を呼び戻す。そこから憲章を練った。過去を捨て去るのではなく、住宅を確保し、災害に対してしなやかに強い街をつくろうと。だが住民の憲章は生かされることなく市の計画は進められた。傷ついた人が未来へ生き続けるための必要条件とは何なのか。小田実は、「日本の民主主義は形骸化している」と痛烈に批判した。

 日本の行政はどうなっているのか。哲学者、国分功一郎は同じような体験をしている。

 東京小平市武蔵野台地の西側に位置して緑が濃かった。公園にも玉川上水の遊歩道にも豊かに木が生い茂り、都営住宅を雑木林が覆う。この緑の街に魅かれて国分功一郎は移り住んだ。ところが街の雑木林をつぶして道路を建設するという行政案が出た。国分は行政の説明会に行ってみると、それは住民の理解を得たという名目の手続きのための説明会だった。主権者の市民の意見は決定過程からはじかれている。国分の活動はそこから始まり、住民運動は裁判闘争にも発展するが、市は行政プランを進めた。国分は、主権者たる国民が決定権を持ちえないで民主主義と言えるか、と形骸化した政治を批判した。(著書「来るべき民主主義」)

 国分功一郎は、こんなことを述べている。

 複数の人間が集まって、何かひとつのものを決めていくとき、ある人はとんがった屋根をいいと言い、ある人は丸い屋根がいいと言う。収拾がつかないから、多数決で決める。それがぼくらの常識だった。しかし、そうする必要は必ずしもないということが実践で分かってきた。

 一緒にいろいろやっていて、一定のプロセスを経ると、それなりにみんなが満足するものができる。参加する人たちの間で、ひじょうに不思議なケミカルな変化が起きる。住民運動に参加したとき、人々の理想、主張はそれぞれ違う。そこでは自分の不同意な意見とも出会う。でも一緒に運動をやっていく中で話し合いをしていくと、みんなの考え方が徐々に変わっていく、ケミカルな変化が起こって前に進んでいく。その中でそれなりの最適解が見えてくる。意見の不一致があるから多数決でということにならない。

 国分の言うこのような討議の過程を体験した人は、現代社会では少ないかもしれない。とことん討議するという習慣がない。討論、ディベート、ディスカッション、という場を地域社会に持つとか職場で体験することは皆無と言えるかもしれない。学校の教育の中では一方通行だ。「意見の出し方」、「意見の聴き方」を学校教育の重要な柱にならない日本の学校ではデモクラシーの基本が養われない。

 政治の世界は多数決、勝ち負けの世界になっているから、市民の中から意見を言う気も起らなくなっている。これが恐ろしい。

小田実と玄順恵の対話 2

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 小田実と玄順恵は、阪神淡路大震災に会い被災した。その復興の過程で、小田は住民と共に泥まみれになって奮闘し、そこで体験し見えてきたのは日本の国の行政の姿だった。 こんなことを語っている。

 

 小田は、地震から数年がたっても、倒壊した家屋の下敷きになって死んだ家族や子どもを悼む花束、オモチャ、キャラメルなどが供えられている被災家屋の跡を毎日のように歩き回っていた。それらの死は、少年の頃の戦争による「難死」をふたたび想起させるものだったし、小田にとって「難死」はいかなる形であれ、こだわりつづけた文学的課題の一つでもあった。これは、いかに生きるかという小田自身への問いであり続けたに違いない。

 小田が、死者を鎮魂する心に十分寄り添いながら思っていたのは、

「人は殺されてはならない」

ということだった。震災直後から、小田は、人間は殺されてはならない、棄民にされてはならない、と孤軍奮闘し、市民会議による国の制度「被災者生活再建支援法」(1998年)を国会で成立させたのは、運動を開始してから三年後のことだった。

 それは、「住専」の破綻に対しては公的資金を投入する政府が、震災で家や財産をなくした被災者にはビタ一文も出さないことに憤りを感じ、「これが人間の国か」と愕然としたからだった。

 「市民=議員立法」運動と銘打ったこの活動は、市民が自らつくりあげた「市民立法案」を議員に提案し、それに賛同した超党派の議員がさらに「議員立法案」として練り上げ、それに内閣法制局が手を入れ議会に提出して実現させたものだった。この運動のプロセスから自然な形で出来上がったのが、その法案に賛成する「市民=議員立法」党だった。

 

 この活動実践は重要な提言をしてくれている。

 これは政党政治を立て直すのに役だつのではないか。「主権は国民にあり」としながら、国民は政治に関与することが選挙以外にはほとんどできず、仮面をかぶった政治家たちの思うがままにさせてきた。主権在民のデモクラシ-に近づける道に踏み入れば道が見えてくるのだ。 

小田実と玄順恵の対話

編集

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小田実と玄順恵の対話

 

トラブゾンの猫」の中で、夫婦の対話が出てくる。それはアテナイ人の民主主義の形についてであった。

 王がいなかった古代ギリシアでは、選挙よりも公開の場で皆が自由対等にしゃべる言論の自由が何よりも優先・重視された。デモス、すなわち「小さな人間」の重要性を最初に言いだして実現させたアテナイ人のデモクラシ-とはどんなものだったか。

 国家の官吏は置かれず、行政の係は持ち回りで、市民(18歳以上の男子)全員が、くじを引いて参加することになっていた。数千人が集まる民会には、25キロメートルも離れたところからでも、農民や水夫、職人たちが歩いてやってくる。民会では、生活向上のための政策から、戦争するか否かまで話し合い、選挙は最後、戦争の指揮官や将軍を決めるときに行われた。そしてすべての公職者をいつでも召喚することができた。

 選挙よりも民会で、世のため、人のために役立つことをうまく話す説得術が重んじられた。

 アテナイの民主主義政体は、「文(ロゴス)」の政治、言葉と理性の力で人を動かすことにある。その基本は、だれもが対等、平等に、公の場で話し、説得することなのだ。古代アテナイ人は、おしゃべり好き、耳学問に優れ、演劇祭や民会、裁判の陪審員、行政委員会などに、全市民がくじを引いて回り持ちで参加するのだから、彼らの一日は結構忙しく、演劇祭と民会の場に切れ目がなかった。

 古代アテナイ人は、船や寺院を建てる際には必ずその道の専門家を呼び意見を聞いたらしい。もしその時、非専門家が口を出したら市民は猛烈なブーイングで黙らせたというほどだ。しかし都市の一般的な政治問題を論じるときは、市民は誰であっても自由に発言できたし、人々はその言葉を注意深く聞いた。選挙で選ばれた者がまともでなくなったら市民によっていつだって召喚された。

 では現代の政治はどうか。

 「大きな人間」が無茶をすることがある。そのとき、「小さな人間」が自分たちの小さな力を信じて反対し、やり直しさせる。それが「小さな人間」のやることだ。それがデモクラシーだ。「大きな人間」がいくら戦争を起こそうとしても、「小さな人間」が動かない限り戦争はできない。「正義のための戦争」「平和のための戦争」なんてまったくおかしい。

 「小さな人間」の存在価値は、戦争に反対する力を発揮することにある。

 

 小田実の人生は、この対話の精神の実行だった。

「トラブゾンの猫 小田実との最後の旅」

トラブゾンの猫 小田実との最後の旅」

 

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  「トラブゾンの猫 小田実との最後の旅」(玄順恵)というエッセイを読んだ。温かくさわやかな感銘深い文章だった。

 トラブゾンというのはトルコの黒海に面した街である。ギリシアからトルコへの最後の旅を小田は妻と共にした。その旅のなかで出会った猫たちは、猫好きの小田の足元に寄って来た。

 猫たちと小田は対話をする。

 このエッセイの中に古代ギリシアの民主主義について、また小田実の行動を伴う思想と人生が語られていく。

 玄順恵は文章中、小田を夫とは書かず、「作家」と書いている。小田は妻を、妻と言わず「人生の同行者」と呼んでいた。

 この旅は小田の病を押しての旅だった。旅の途中、小田の食は進まなかった。病が進行していた。そして旅から帰って「トラブゾンの猫」という寓話小説を書き始めるが三か月後に小田に死が訪れ、小説は未刊に終わった。

 小田は病の床で、「サントリーニに散骨してほしい」と遺言した。小田の死後、十年の歳月がたって、人生の同行者はサントリーニに娘夫婦を連れて行き、散骨を行う。

 ギリシアサントリーニ島はいったいどこにあるのか。エーゲ海の中にその島はある。ぼくは地図で探した。島はクレタ海にあった。

 小田が文学を志したのは古代ギリシア文学に出会ったからだった。クレタ島に近いサントリーニ島は、エーゲ海文明の中心地だった。

 小田は、その島についてこう言っていた。

 「ここには戦士や武器の類の遺物がいっさい出てこない。きっと王様がいない文明だったのだろう。」

 自由と個人の責任とのバランスを愛した小田はこの島の文化が気に入ったらしい。小田没後10年、散骨は、朝日が昇っていく清々しいときに行われた。船は小さなクルーズ船で、風のない海をすべっていった。遺灰は、小田の娘が一袋、妻の順恵が一袋、海にまいた。そして花束を投げた。小田実エーゲ海に抱かれ永遠の眠りについた。

 散骨、ヨーロッパでは多く行われているようだ。日本でも増えつつある。ぼくの場合、樹木葬自然公園ができればそこに、できなければ散骨、では場所はどこ?

 それを思うと、またまた夢想が広がっていく。