タイガース監督の「あれ」

 

    タイガース監督の、「あれ、あれ」は評判になった。選手には「あれ」で伝わり、ファンにもわかり 、マスコミでも話題になった。

    ところで、この「あれ」は、年をとってくると、頻発する。老夫婦の会話。

    「あれは、どこにあるかな」

    「あれ? ああ、それね、あそこにあるよ」

    認知機能や記憶力が衰え。言葉が出てこないとき、つい「あれ」が出る。聞く方はそれで、意味をキャッチする。

 

    内田樹が、「街場の戦争論」のなかで、こんなことを書いていた。

    「伝統芸能の世界では、師は弟子に、名前や具体的な内容を口にしないで、『あれ』としか言わないことが多い。すなわち意思を『察する』訓練をしているのです。『あれ』で、師匠の指示がわかるようにしておかないといけない。極端な言い方をすれば、芸を修業するのではなく、師匠の呼吸や思考や感情の働きに同調する稽古をしているのです。四六時中、師匠と起居を共にして、その一挙手一投足を合わせる。そうすると、そのうちに師匠の生理過程に同調してくる。

    アフリカに、『おむつなし育児』をしている種族があって、その母親たちは、子どもがオシッコをしたくなると、背中からひょいと下ろして、オシッコをさせるのだそうです。どうして赤ちゃんがオシッコしたいと分るのか、それを聞いたら、「母親なら赤ちゃんの尿意を自分の尿意と同じように感じられて当たり前でしょ」、と。

    その種族では、それぐらい母子の体感が同期している。

    内弟子に入るということは、この体感の同期を学ぶことです。‥‥十年も師匠と起居を共にして、呼吸があってきて、生理過程が同期してくると、気が付かぬうちに師匠の芸のものが出てくる。内弟子は身体的な同期を通じて芸を習うのです。

    共同的な身体を構築すると、他の個体が見えているものが見え、他の個体が聞こえているものが聞こえる。リーダーの思念が、全員に一瞬のうちに伝播する。そして一個の身体であるかのように行動できる、そういう同期能力を高め、それを次世代に伝え、さらに開発することによって、人間は地上に君臨するようになったのです。

    イギリスのパブリックスクールでは、スポーツによって身体的同期能力を焦点化している。サッカー、ラグビー、ボート‥‥、複数の人間があたかも一個の身体であるかのように動く能力。全員の呼吸が合って、一個の多細胞生物のように機能することが競技の目的なのです。」

 

    内田樹は、こう書いていたが、一方で、私の指摘したいのは、イギリスのパブリックスクールの教育では、「個」の思考、ひとりひとりの意思の重視である。生徒は自己の意見・異見はどうどうと主張する。生徒の個としての意見を抑圧して、全員に「右へならえ」と強制することは否定する。一人一人の主体性を尊重しながら、スポーツではみんなが一致し、呼吸を合わせ、多細胞生物として機能する。

 

    阪神タイガースは、「あれ」を実現した。