住井すゑ「牛久沼のほとり」から  3

 

 

    住井すゑ「牛久沼のほとり」は、元京都府知事を七期務めた蜷川虎三氏の、胸に迫る葬送を書いている。  

    1981年2月27日、蜷川氏は84歳で亡くなった。住井すゑはテレビで訃報を知り、胸がいっぱいになった。アナウンサーが伝えた。

    「胸に憲法一冊を抱いて、柩におさまってゆかれました。」

    京都の知人から住井すゑに手紙が来た。

    「憲法を暮らしの中に生かそう、これをモットーとして7期28年間、民主府政を貫かれました。先生の遺志で、お通夜、告別式は致しませんでしたが、三月一日のご出棺には、府民3000人に見送られて、永遠の旅路につかれました。私たちは、先生のご遺志を受け継ぎ、民主府政に全力をつくそうと誓い合いまし た。」

 手紙を読んだ住井すゑは想像した。

    「出棺を見送った3000人のふところやポケット、ハンドバックには必ずや『ポケット憲法』が秘められていただろう。『ポケット憲法』は、憲法を暮らしの中に生かすべく、蜷川氏府民に供されたもので、文字通り小冊子。その一冊を私も京都で頂戴した。以来私は、旅には必ずハンドバックにしのばせることにした。車中で広げるにはこれ以上適切なものはなく、小型で軽く、てのひらに納まる。何度読み返しても絶対あきることのないその内容、なかでも第二章、第九条は、読むたびに私を力づけてくれる。

    『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇、又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては永久にこれを放棄する。陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。』」

 蜷川虎三は戦前、戦中、京大助教授、教授、経済学部長を務めた。そして日本の敗戦となり、彼は自己の戦争責任を批判して京大を退官した。1950年、推されて京都府知事に立候補、知事となった。そして在任28年、京都府政にたずさわった。

    行動的作家、思想家、小田実は言った。

    「憲法に書かれているという事実、それはそれだけのことである。書かれている憲法、これを使って、進んで身を守る、それを使って自分でたたかう、それによってだけ憲法が現実のものとなる。それを使って自分でたたかうことによって、書かれた憲法の文句が実物となっていくのだ。」

    そうして彼は、「ベトナムに平和を市民連合」や、阪神淡路大震災での市民運動の先頭に立ったのだった。