15年余り、朝夕、ランを連れて野を歩いてきた。
犬連れの人と出会うと挨拶し、会話を交わした。
そうして犬を介して「友」が生まれた。
世間で、「犬友」という言葉もある。
中型犬を連れたご婦人に14年前出会った。犬の名は「おみそちゃん」、毛色が味噌に似ているから、そう名付けたとご婦人が言った。保護犬のようだった。
その子(犬)は、ランに関心を示さず、知らんふりして歩いてゆく。臆病なのかな、と思った。
「おみそ」とご婦人は、いつもどんどこどんどこ走って散歩していた。かなりの距離を回ってくる。
一昨年ぐらいから、もうご婦人は走らなくなった。出会う回数も減った。
ランが死に、犬友と出会うと、ランの訃報を伝えた。みんな残念がり寂しがってくれた。「おみそ」のご婦人とは最近会うことがなかった。
数日前、その「おみそちゃん」とご婦人が、我が家の前にやってきた。
「お久しぶりです。お元気でしたか。」
挨拶を交わして、僕はランの死を伝えた。ご婦人は絶句し、不思議なことを言った。
「この頃、おみそは、遠くへ行きたがらないんです。早く帰りたいそぶりをするんです。ところが今日は、こっちへこっちへ、ぐんぐん引っ張ってきたんです。」
「おみそ」は近づいてきて、今までしたことのない行為をした。
僕の足もとに来て、ぼくがなでるのに身を任せたのだ。
それは、ランの死を感づいている、知っている、と言わんばかりの行動だった。
だれからも教えられなくても、動物にはそれを感知する力があるのではないか、
一瞬そう思った。
「おみそちゃん」は、ランの死を感づき、お別れの挨拶に来たのだ。
「おみそちゃん」のご婦人は、「不思議です、不思議です」と言って、
「おみそちゃん」を連れて帰って行った。